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メディアは「本当のこと」を伝えているか

■マス・メディアのしくみ
 これまで見てきたさまざまな社会問題について、ここではじめて知ったという方も珍しくないのではないかと思います。みなさんがなぜそれらを知らなかったかというと、要するにそれは日本のマス・メディアがそうした情報をまともに扱ってこなかったからです。ではなぜ、彼らは社会問題を扱わないのでしょうか?
 それはマス・メディアのしくみを見ていくと明らかになります。マス・メディアとは、テレビや新聞、ラジオなど、マス(大衆)、すなわち不特定多数の人びとに向けて情報を発信する媒体のこと。とりわけ、戦後日本の代表的なメディアであるテレビを念頭におきつつ、話を進めていきたいと思います。
 民放のテレビでは、番組の間や途中で頻繫にCM(コマーシャル)が流れます。流させているのは、その番組のスポンサーとなっている企業。広報力に乏しい企業が、お金を払って商品の宣伝をメディアに代行させているのです。であれば、マス・メディアから企業に都合の悪い情報が流れてくるわけがありません。
 以上が企業によるメディア・コントロールだとすると、もう一方でメディアは、政府による統制をも受けています。メディアには報道番組に見られるようなジャーナリズムの機能があり、ゆえに「第四の権力」と呼ばれます。民主主義を支えるための政府・資本への批判がその本質ですが、権力は当然それを嫌います。
 かくして、日本政府が活用しているのが記者クラブ(大手メディアがつくる任意組織)です。これにより、同クラブの優遇と引き換えに政府への忖度が働き、大手メディアからは政府への批判的報道が流れにくくなっています。このように、マス・メディアは資本と政府による二重のメディア・コントロール下にあります。
 資本と政府のみならず、そこには広告代理店という存在も絡まりあっています。代表格が電通ですが、彼らはメディアと企業の間の広告ビジネスを仲介するとともに、政府与党である自民党の選挙PRを委託された存在でもあります。つまりは、企業・政府・広告・メディアという利害共同体が君臨しているのです。

 
■インターネットの新しさと変わらなさ
 若いみなさんの場合、テレビなんてほとんど見ないという人も少なくないかもしれません。その場合、より身近なメディアとは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などインターネット・メディアでしょう。ここでは、新しいメディアであるこのインターネットというメディアについて見ていきます。
 現代日本において本格的にインターネットが普及していくのは、一般向けのOS(オペレーティング・システム)であるWindows95が発売された1995年以降。いまから四半世紀以上も前のできごとですが、当初インターネットは、情報の民主化をもたらす媒体として大いに期待されていました。
 それまでのメディアが特定の人たちしか情報を発信できない一方向的で中央集権的な媒体であったのに対し、インターネット上では誰もが簡単に自身のサイトをもち、情報を発信したり受信したりできます。その双方向性、分権性や分散性により、誰もが知りたいことを知り伝えたいことを伝えられるようになる――。
 とはいえ、それから25年以上のちの世界に生きる私たちの実感はどうでしょうか。残念ながら、インターネットの空間にはデマやフェイク、ステマ、誹謗中傷があふれ、期待された情報民主主義が達成されているとは言いがたい現実があります。どうしてこんなことになってしまっているのでしょうか。
 ひとつにはやはり、インターネットの参入障壁の低さがあります。一般人の私たちが参入しやすいということは、当然、企業や政府、広告代理店などにとっても入りやすいということでもあります。彼らは、潤沢な資金や権力を使い、インターネット空間にひそやかに影響力を及ぼし、しかもそれを拡大しています。
 資金や権力があれば、自身がインフルエンサーになることも、インフルエンサーを買収してネット世論の工作やステルスマーケティングに協力させることも簡単です。そう考えると、民主主義を期待されたインターネットの空間はいつのまにか、旧来のメディアを変わらないものになってしまっているようです。

 
■メディア・リテラシーとはなにか
 そうした時代だからこそ、私たちにはメディア・リテラシーが求められることとなります。かつてメディア・リテラシーとは、テレビのような中央集権的なメディア発の情報を、その偏りやゆがみを批判的に読み解き、真偽を見抜く能力として理解されていました。でも、現在の私たちにはそれだけでは不十分です。
 メディア・リテラシーは現在、次のようにその定義されています。すなわち、「民主主義社会におけるメディアの機能を理解するとともに、あらゆる形態のメディア・メッセージにアクセスし、批判的に分析・批評し、創造的に自己表現し、それによって市民社会に参加し、異文化を超えて対話・行動する能力」です。
 順に解説していきましょう。まずそれは、民主主義を社会に実装していくために必要な能力なのだということへの理解です。民主主義とは、ものごとを人びとの参加と対話によって決めていくしくみ。そこでは、何かを決める上で、それについての情報が歪みなく人びとに行き渡っていることが前提条件となります。
 次にそれは、さまざまな媒体からのメッセージを受け取る能力を意味します。それには、さまざまな媒体の特性を知った上で、それらに自在にアクセスし、得た情報を批判的に読み解くことができなければなりません。情報の発信者が多様化し不透明化している現在、かつて以上に必要な能力でもあります。
 しかしここまでは、従来のメディア・リテラシー論でも論じられてきたことです。ウェブ2.0以降の現在、私たちは誰もが情報の発信者の位置にあります。twitterでつぶやくこともインスタに写真をUPすることも、不特定多数に向けた立派な情報発信です。では、発信者に求められるリテラシーとは何でしょうか。
 それは、ヘイトやフェイク、誹謗中傷などのサイバーカスケード(ウェブ上の集団極性化)に巻き込まれることなく、根拠に基づいた情報発信や自己表現を行い、さまざまな他者と対話していく能力を指しています。とはいえ、以上のような多岐にわたるリテラシーを私たち個々が達成するのはとても難しいことです。

 

■メディア・リテラシー実践を支えるもの――オルタナティヴ・メディア
 個々それぞれで実現するのはとても困難なメディア・リテラシーの現代的規範。いったいどうしたらよいのでしょうか。要するにそれは、私たちがメディア・リテラシーを実現するには、何らかの支え――マス・メディアとは別のメディアによる支え――が不可欠なのだということを意味しています。
 この別のメディアのことを、オルタナティヴ・メディアといいます。オルタナティヴとは、もうひとつの選択肢のこと。現代の社会には、インターネットなどを活用して、人びとが知りたい問題について自分たちで調査・取材を行い、発信している市民発のとりくみが豊富に存在します。市民メディアとも言います。
 当然、それらが扱うのは、マス・メディアとは異なった情報になります。例えば企業や政府の作為/不作為に由来する社会問題――例えば、原発や遺伝子組換作物――やその解決案などで、市民メディアとは、そうした社会のオルタナティヴをめぐる情報を伝えるオルタナティヴなチャンネルづくりでもあります。
 代表的な媒体としては、インターネット市民放送局「OurPlanet-TV」があり、ウェブサイトにてさまざまな問題を扱ったニュース・ドキュメンタリーを発信しています。ドキュメンタリーといえば、山形市で隔年開催される「山形国際ドキュメンタリー映画祭」も世界的に有名な市民メディアの実践です。
 とはいえ、こうしたオルタナティヴ・メディアはとても敷居が高く、一般の人びとが日常生活のなかで普通に触れられるものとは到底言えません。質のよい情報を得るのにコストがかかるのは仕方ないにしても、現状のままではそれは一部の意識の高い人たちだけのものにとどまらざるをえない。どうしたらよいか。
 海外ではさまざまな実践がさかんです。例えば、パブリック・アクセス。これは法律によりマス・メディア内部にオルタナティヴ・メディアを強制的に組み込むというもので、こうすれば人びとにマス・メディアを通じてオルタナティヴを届けることができる。情報社会のアップデートはそんなふうに進んでいるのです。

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