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フリースペース運営と発言権/決定権について

フリースペースSORAの開設・運営に携わってきて1年がたった。身近にモデルも前例もなく、すべて手探りの試行錯誤の中で積み上げてきたのだが、これまで積み上げてきたものをこの辺りで一度、きちんと分析し批評し位置付けする必要性を感じてきた。今回よりその作業に取り組んでいきたいと思う。そもそも、フリースペースSORAとは何なのか。そしてそのフリースペース(フリースクール)を山形において開設するとは、どういうことなのか。今回は、フリースペースSORAの団体組織のありかたについて考えてみたい。

一般に、フリースペース(フリースクール)には法的定義も共通規格も存在しないため、主催団体ごとにそのありかたも多様だ。そこでは、主催者の思想や価値観がその場の空間設計に直接的に反映される。したがって、あるフリースペース(フリースクール)を批評するときに着目すべき点は、①その空間がどのような価値前提のもとで設計されているか、ということになるが、それと同程度に重要だと思われるのが、②誰がその空間設計に関して発言権=決定権を有しまたその決定に責任を負っているのか、ということである。

SORAに関していうと、それは「子どもたちの居場所づくり」なる目的を核とした市民の任意団体であり、当然ながら、活動の趣旨に賛同し自発的にそれに参画している活動者にこそ発言権=決定権(そしてそれゆえの責任)は属する。しかもそれは、彼(彼女)が活動にかけるコスト(あらゆる意味において)が増えれば増えるほど大きくなる。つまりはこういうことだ。たくさん手を動かした者が、たくさん発言できる(外部や周辺の者に発言権はない。たとえそれが専門家であれ)。では、なぜこのような原則を採用しているのか。

SORA開設はもともと自分たちが自分たちのより良き社会や生のために自発的に開始したものであって、誰かに強制されたものでも義務でもない。極論すればそれは、自分たちの楽しみのためにやっているものなのである(それに社会的意義やそれゆえの責務があるとすれば、それはあくまで結果的にそうなったというだけのこと)。したがって、そうした前提のもとで活動しているSORAに「〜すべき」等といった外部や周辺からの命令の語彙は馴染まない。誰かが「〜すべき」と思ったなら、そう思った者が「〜すべき」なのだ。少なくともSORAはそうした前提で活動している。

このことを言い換えると、活動者の自己決定=自己責任の原則ということになろう。フリースペースの組織運営も、基本的には参画者の自己決定=自己責任でなされるべきものではないかと思う(これは子ども/大人にかかわらず)。発言権のみを行使するような無責任は回避されねばなるまい。組織運営がそのような原則にたてば、それはある意味、(未完の)市民的公共性のモデルにもなり得るのではないかと思う。そうした意味でも、フリースペースの社会的意義は大きいと思うのだが、どうだろうか。

(『SORA模様』2002年7月 第15号 所収)

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