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「当事者である」とはどういうことか。

■先日、山形県からの委託を受けた「若年無業者のための社会参加体験プログラム開発」事業の一環として、「子どもの社会参画支援」をミッションとするNPO法人・寺子屋方丈舎(会津若松市)代表理事の江川和弥さんを講師に招いての、ワークショップを開催した。ワークショップのテーマは「NPO企画づくりを体験してみよう:コミュニティビジネス起業一日体験企画」。何だか難しそうで近寄りがたい雰囲気のNPOの活動を、実地で体験してみようというものだ。

■ワークの構成は以下の通り。アイスブレイクも兼ねて、参加者それぞれが現在困っていることを言語化し、それをもとに自己紹介。場の雰囲気がほぐれてきたところで、参加者は二つのグループに分かれて模擬会議を行い、その共通体験をもとに、会議のしかたについての簡単な講義を受ける。そして、そこで得た知識を応用し、グループごとに会議運営を実地演習(議題:ぷらほで会社をおこすには?)。最後、その成果についてプレゼンを行って終了、というものだった。

■とりわけ興味深かったのが、冒頭のワーク「現在あなたが困っていることを言語化してみよう」というもの。KJ法で、付箋紙1枚に1ネタずつ、各自の現在困っていることを書き出し、それが自己紹介の話題として使われたのだが、実を言うとそこで付箋紙上に言語化されたそれら「現在困っていること」は、そのひとつひとつが、各人の抱えるニーズを意味する。中西正司・上野千鶴子『当事者主権』(岩波新書)は、何らかのニーズを抱えている人のことを「当事者」と呼ぶ。

■「当事者」のこうした用法には違和感があるかもしれない。とりわけ居場所界隈では、「当事者」といえば、「不登校・ひきこもり(経験)者」を指す言葉として通常は流通している。しかし、たとえそこに「不登校者」や「ひきこもり者」がいたとして、彼(女)がその問題――ここでは「不登校」や「ひきこもり」――を自らのニーズとして特定し、その問題の「当事者」に身をおくという意志決定がなければ、彼(女)は「不登校」や「ひきこもり」の「当事者」とは言えない。

■言うなれば、ニーズなんて「何でもあり」である。「趣味仲間がほしい」だって、「話し相手がほしい」だって全然かまわない。人びとが、自分たちの抱えるそうしたさまざまなニーズ(困りごと)を解消するべく、自分たち自身で動き出すとき、そこに当事者運動の萌芽がある。NPOもまた然り。自分たちならざる「当事者」に何をしてやれるかではなく、自分たちはいったい何の「当事者」であるのか。この「当事者性」認識こそ、NPO固有の価値なのである。

※『ぷらっとほーむ通信』057号(2008年01月号) 所収

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