掌編小説「遠い横顔」

 午後の授業が始まって暫く経った頃、教室には静寂が息づいていた。生徒たちの視線は黒板とノートを行き来し、教師が一定のリズムで黒板を鳴らす。その中で川辺紗奈はノートにペンを走らせながら、心は隣の席に座っている浅見結莉花に縛り付けられていた。青を帯びた艶やかな黒い髪が僅かに揺れ、長い睫毛を伏せノートへ視線を落とす結莉花の横顔。紗奈は授業の内容よりも、その横顔を盗み見る事に腐心していた。結莉花がふと顔を上げ、窓の外を見る。その瞬間、紗奈の胸は甘い苦しみに締め付けられる。結莉花がこちらを見る事なく、何処か遠くを見ているその自由な横顔が、紗奈にとって何よりも美しいと疑った事はなかった。流麗な前髪は下に隠れる秀でた額を想起させ、筋の通った上品な鼻が伸びている。僅かに開かれた唇からは純真な妖艶さが漂っていた。僅かに傾いた太陽の光が結莉花の横顔に射し込み輝きを纏った時、紗奈の胸の内は恍惚で満たされた。

 紗奈はこのまま結莉花の横顔を手に入れ自分だけの物とし、永遠に見ていたいとさえ思っていた。しかし決して手を触れる事は許されないという相反する身勝手な思いが混じり合い彼女を苦しませた。美とは常に天頂でなければならず、自らは仰ぎ見る事しか許されないと紗奈は感じていた。

 結莉花の横顔に見惚れていると、不意に彼女が顔をこちらに向けた。結莉花の視線が紗奈の目を捉え微かに笑みを浮かべる、その一瞬で心臓は跳ね上がり背骨を冷たい指先でなぞられた様な痺れが走った。結莉花の瞳は深く澄んでいて夜の海の様に静かで美しい。紗奈はその蠱惑的色彩の瞳が自らに向けられる事が信じられず、歓喜と戸惑いが混ざりあった熱の波が全身に打ち寄せるのを感じた。

 結莉花が視線を前に戻すと紗奈は安堵に包まれた。彼女が気まぐれに向けただけであろう視線に触れるだけで心が乱れる。手を伸ばす事が出来ない苦しみが彼女への渇望を肥大させていく。鋭利な美によって心に刻まれた痛みさえ愛おしく感じられ、永遠に抱き続けられる事を願っていた。

 授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。紗奈は背中に感じる視線から逃げ出す様に急ぎ足で教室から飛び出した。

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