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【短編小説】エビのように、舞うように

 平日の一番陽の高い時間に、駐車場に車を止めると、渋谷真治はため息をついた。ホームセンターのだだっぴろい駐車場には、停まっている車はほとんどなく、熱せられたアスファルトはぎらきらと夏の日差しを跳ね返し、湯気でも出ているかのようだ。

 真治は営業部に所属しているから、火曜日のきょうは休みの日。トイレットペーパーやら、詰め替え用の洗剤を買いたいけれど、売り場は向かって右のほう。反対の左端にあるペットショップにも寄りたいので、真ん中に停めたのだ。

 早朝のジョギングを長年の日課にしていて、体力には自信のある真治でも、車外に出るのをためらうような暑さだ。それでもきょうは、どうしてもここに来たかった。真夏の日差しと同じくらい、じりじりぎらぎらと、焦げるような思いを抱いていたから。

怒り? 失望? 悲しみ? 虚しさ? この感情に名前を付けるのはなかなか厄介だ、と真治は思いながら車外へ出た。


 真治は昨日、女に振られた。

 「付き合ってください。」とか、「好きです。」なんて言って始まった関係ではない。そんなセリフ、子供染みてて野暮ったいと思っていた。いつのまにかすっと寄り添っているような、視線の交わし方が次第に密になってくるような。

 五十代も半ばを過ぎた真治からしてみれば、それが理想的な恋の始まり。すっと自然に手を繋いでいるような、気づけばキスを交わしているような。

 ところが、完全にその路線に乗ってきていると思った女性に、まったくその気がなかったことが昨日になってはっきりわかって、やりきれない気持ちでいっぱいなのだ。

 相手は同じ営業部の事務の女の子で、鳴海ちゃんといった。一か月前に二十六になったばかり。

 朝、会社の前で出くわすと、必ず笑顔で「おはようございます。」を言ってくれる子だった。その笑顔には、社交辞令めいたすんとしたところがなくて、こころから嬉しそうに、楽しそうに見えた。

 特別な美人ではないけれど、笑顔が可愛い。制服に着替える前の鳴海は、特に着飾っているわけでもないのに、どこか洒落た感じで新鮮だった。

 「合格点」だと、勝手に判定した真治には、驕りがあったのかもしれないが、彼自身そんなことには気が付いていなかった。

 五月ごろの月曜の夜に、たまたまふたりとも残業になってしまった日があって、真治は迷いなく、

「このあと、一緒にどう? 食事でも。」

 と誘った。にっこり笑って鳴海はついてきたし、食事中もにこにこ笑って真治の話を聞いていた。「食事のマナーも、合格点。」真治は勝手に採点した。

 連絡先を交換し合い、お互い休日イブの月曜の夜に、食事をする機会も増えた。

 翌日の火曜の映画に誘っても、鳴海はやっぱり着いてきたし、観に行った映画がとても面白かったので、真治の気持ちは盛り上がった。峠道をドライブしたことも、ボーリングに行ったこともある。

 鳴海の誕生日には、ネックレスをあげた。あまり相手に重く思われないよう、薄い水色とレモン色のしずく型のガラス玉のついた、シンプルで手頃なものを。鳴海は「可愛い! ありがとうございます!」と言って喜んでくれた。

「でも、焦りますよね。ぼやぼやしてるうちに、もう二十六歳。結婚考えるなら、時間ないな、って思っちゃいます。」
 鳴海の笑顔に見えた瞳は、いつになく真剣そうだった。

 関係性はプラトニックなものだったけど、これだけ密な時間を過ごしているのだ。てっきり真治は、鳴海にとっても俺は「あり」な存在なんだと思っていた。

 それがまるっきり見当違いだったということが、昨日になって露見した。

 昨日の月曜、いつものように食事を終えて、鳴海のアパートまで運転して送るところだった。急に大粒の雨がフロントガラスを叩いたかと思うと、とんでもない量の雨が降り出した。ゲリラ豪雨ってやつだ。

「はは。これじゃまったく前が見えないね。危ないから、一旦路肩に停めよう。だいじょうぶ、すぐに止むよ。」

 車を止めて助手席を見ると、鳴海の顔が不安げにみえて、それがなんだか愛おしく感じた。真治はシートベルトを外し、身体を起こして、鳴海のほうを向いた。その瞬間に、鳴海の瞳が恐怖に震えるのを見た。

 鳴海は止めるのも聞かずに、手を振り払うようにして、ベルトを外し、車外へ出た。そして窓ガラスを開けるようにと、激しく叩く。鳴海の髪に、顔に、身体に、容赦なく雨が吹き付けるのを見ながら、真治は胸打つ自分の鼓動が、いやに冷たい、と思っていた。

 窓ガラスを渋々全開にすると、鳴海は叫んだ。雨が車を叩く音に、負けじと叫んだ。

「ごめんなさい! そんなつもり、全然なくて! 渋谷さん、大人だし、優しいし、ちょっと甘えてたかも! 一緒にいると楽しいし、でも恋愛対象では全然ないっていうか、なさすぎて考えてもみなかった、っていうか! 渋谷さんぐらいの年齢の男の人は、若い女の子と食事に行くだけで楽しいんだろうな、って、勝手におごり高ぶってたっていうか!」

 激しい雨が、鳴海のブラウスを濡らし、下着のラインを露わにしていく。

「……わかった。悪かった。とりあえず乗りなよ。風邪ひいちゃうよ。」

 真治は優しい口調で言いながらも、凍りつくような胸の痛みをおぼえていた。

 鳴海は車に乗らなかった。ドアを一瞬開けて自分のバッグをひったくって、真治に深く頭を下げ、走って雨のなか、アパートの方角に消えていった。

 それがつい昨日の出来事なのだ。

 日用品を買い終えた真治は、一旦車に戻って荷物を置き、左手にあるペットショップへ向かう。迷いもなく、水槽の並ぶ売り場へ。お目当てはエビだ。小さなビニール袋に五匹ほど入って、陳列されているのを知っていた。

 いつもはたくさん並んでいるのに、きょうは棚の上に一袋しかなかった。袋を取り上げて眺める。五ミリほどの小さなエビたち。たぶんミナミヌマエビだな。本当は、もう少し大きいヤマトヌマエビが欲しかったが。

 暇そうにしている店員を捕まえる。二十代半ばくらいの男性店員。あどけない、頼りない、やる気もなさそう。鳴海と同じくらいの年頃だ、と思うと、なんだか萎える。

「エビ、これしかないの?」
「そうっすね。子供たち、夏休みに入ったんで、みんな売れちゃったみたいっす。」
「これって、この大きさでおとなってこと?」

 店員は袋を持ち上げてなかを眺め、
「そうっすね。これで、おとなっぽいっす。」
 と言った。真治は、「言葉遣い、いろいろおかしいだろ。」と思ったが、黙ってそのエビを買った。

 家に帰って、さっそく水槽に入れた。もともと飼っているエビが五匹ばかり入っている水槽に。
「ほら。新入りだぞ。」

 真治はエビをこよなく愛す。

 エビの面白さは、暗闇のなかにこそある。夜になるのを待って、部屋の電気を消すと、ランタンだけの灯りで酒を呑む。冷蔵庫できりっと冷やした辛口の日本酒の小瓶をおちょこに注いで。つまみは鮭とば。目の前にはエビの水槽。

 暗くなると、エビは縦横無尽に泳ぎ出す。ふわりふわりとしたその泳ぎは、中国絵画のなかの龍にも似て、泳いでいるというよりは空を駆けている、というイメージだ。

「自由だな。いいなあ、お前らは。」
 真治は呟き、少し笑った。

 世の中に、こんな楽しみがあることを、鳴海はきっとまだ知らない。辛口の日本酒も、鮭とばの旨さも、きっとまだ味わえない。

 同じ星に生まれて、人間に生まれて、日本という国に生まれて、巡り合うことがかなう時代に生まれた。それだけでは足りない、って、君は言うのかい? 随分、傲慢だ。

 真治はエビを見つめながら思う。

 あの女は、「合格点」だった。いろんな意味で。でも俺のほうだって、惚れていた、っていうのとは、だいぶ違った。「あり」ではあったけど、好きだったわけじゃなかった。

「随分、傲慢だな、俺も。」

 これでよかったのだとこころから思えた。

エビは薄暗い灯りのなか、自由自在に飛び回っている。真治はほろ酔い気分で日本酒をやりながら、いつまでもそれを眺めていた。こんなに愉快なこころもちもあるまいと思いながら。

〈おしまい〉

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