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時間にかえられない価値がある。回せるものはプログラムで。

某クレジットカードのCMコピーが好きでもじってみたが、ちょっと苦しかっただろうか。しかしこのパクリコピーはかなり前にひらめいており、たびたび思い出しては反芻している。

私は元エンジニアだ。新卒で研究職を数年し、紆余曲折経てから編集を経験した。研究者から編集者へ——音の響きが似ているのがなんかいい。一見、まったく違う仕事のようだが、どこか共通点があるに違いない。また今度記事にしよう。

さて、エンジニアでよかったと思うのは、何を差し置いても現場を経験したこと。そのおかげで、専門職にならなくても、エンジニア的なことはいつからでも始められる、と思えるようになった。そしてちょっとした技術を使えたら、人にしかできない仕事に集中できることを知った。

辞めてから能力が開花

エンジニアと一口にいっても色々あり、私はプログラマーではない。でも、どの分野においてもプログラムを使えた方が有利なのは確か。そんなわけで大学でプログラムの基礎を学んではいたのだが、私といえばまったく使えなかった。新卒の会社でも、できなくても何とかなる仕事だったので極力避けた。先輩に「やれ」と言われても「私はこれを理解するために時間を割くくらいなら、アナログの方が早いんです」と頑なに拒否した。

その会社を退職する時に思うことがあり、「もう技術者には戻らない」と決めた先で能力が開花した。

営業事務を経験した時は見積もりや試算といった数字の入力、編集では規則的なルールがある雑務的な記事作成など、慣れてくるとルーティンワークが退屈になった。手打ちだと、時間がかかる上にヒューマンエラーもあって非効率ったらありゃしない。
そこで一念発起した。資料の規則性を整理し簡略化する方法を考え、まずは独学でエクセルを学んだ。それまでエクセルも多少使えるものの、駆使しているとは言えない程度だった。それが数式を使いこなし、マクロをいじり、やがてVBAも使えるようになった。
ゼロからイチを生み出すのは難しいが、イチを10にするならできる。人間が作り出したプログラムについて、私が欲しい機能なんて探せば腐るほどネットに転がっている。あとは「何のために」「どう使うか」が問題で、使う人の数だけ組み合わせがある。その道で生きていくのでなければ、小学生レベルだっていい。自分のために役立つなら何でもいいのだ。

単位取得のためだとか、人に命令されると嫌だけれど、自分が楽するためなら頑張れる。私の場合は、プログラムを当然のように使いこなす人々に囲まれていたからこそできた。ずっと「私にはどうせできない」みたいな思い込みがあったものの、それでも単位をとれる程度に知識はあった。
少し昔だと事務職の女性がコードを書いていた、なんて話も聞いたことがあった。さほど優秀というほどでもない人ですら、目の前で使いこなしているのも見ていた。そういうのが無意識のうちに積み重なっていたと思う。おかげで自分にとって必要性が出てきたときに、「ちょっとやってみようか」とすんなり始められた。

このようなことは、別に経験しなくても頭の良い人なら他人の話を聞いたり、少し考えれば分かるだろう。私の場合は食わず嫌いがあったので、経験しなければもっと時間がかかっていたに違いない。
ただの食わず嫌いなら「食べてみようか」とさえ思えれば、こっちのもの。認識が変われば世界が変わる、というのはまさにその通り。私はエンジニアの世界にどっぷり浸かることで、途中苦労はしたが最後はポジティブに変換できた。

理系的思考

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エンジニアであったことは、プログラム以外でも重宝した。
大学、新卒時代とプレゼンばかりしていた。研究では他者に対して「いかに自分のやっていることに価値があるか」を説明しなければならないため、キレイな資料を作るだけでなく、ストーリーも組み立てる必要がある。その考え方は、他分野の営業資料においても同じことだった。人前で話すのが嫌いなのでプレゼンは大の苦手のはずだったが、企画書は普通に作れた。

また、目の前の仕事だけでなく、会社のシステムについても俯瞰してみることができた。最初の会社はそこそこ大手というのもあって、組織としての仕組みにもバグがなかった。それが当たり前ではないということは、その後全ての会社において差はあれど常に感じる。システム化すれば一発で終わるものが、けっこうマンパワーで動いており、バグも多い。小さい会社だと「こんなメチャクチャな仕組みでよく潰れないな」と感心することさえあった。たぶん、仕組みさえきちんと作れば、無駄な経費50%はカットできるんじゃない? というくらいに。

このような思考回路もエンジニア、つまり理系は強いだろう。
もちろん、どっちがいい悪いはない。文系理系というのは学問とか仕事をカテゴライズするためであって、実際の思考回路は理系でも文系的な人はいるし、逆もまた然り。小手先のテクニックじゃ分けられない。

効率化がすべてではない。人の心はプライスレス

自分のクセで、つい「効率化」を優先したくなるが、それ一辺倒になるのも考えものだ。泥臭い作業の中で覚えることもあるし、人が介することで得られるメリットも多い。「数十年前までこの世になかったパソコンやケータイが広まって、仕事量は減ったか? 減ってないでしょう」みたいな話もよく見かける。

ただ、「自分にこの作業は必要ない」とか「もっと別のことに注力したい」と思った時に、上司に直訴して変わればいいが、そううまくもいかない。本来であれば、大勢を巻き込むほど大幅な業務改善に繋がるが、悲しいかな、そんな意見は求められていないこともしばしば。
なので、基本は個人単位で簡単な表計算やプログラムの能力を活かすことにしている。そうしていると、自己満足で始めたことが、たまにそれを見た周りの人間が「そんなことができるんだ?」と新しい認識をインストールしたりする。チャレンジャーなら自ら試してみたりして、「お、できるじゃん」とその人なりの成功体験を積む。文系の人だと特に新鮮な喜びを感じているようだった。触れる機会がなかっただけで、やろうと思えばできる。そんな風に徐々に広がったりして、我ながらいい効果を発揮していると思った。

そこでもメリットデメリットがあって、1人だけで業務改善をしすぎた結果、仕事がなくなって暇を持て余したり、居心地が悪くなったりすることもあった。


今やAIなども出てきているし、10年以内に消える仕事もたくさんあるという。実施状況は知らないが、新聞記事だって簡単なものなら情報を入力すれば文章ができる技術は相当前に完成しているとか。
それを思うと、自分の仕事の多くが近い将来、プログラムに取って代わられるものだった。記事1つ書くにしても、焼き直ししただけのような情報を出すことに抵抗が出るようになった。

ただし、だ。人の心だけは絶対にプログラムできない——少なくとも今は。AIが発達したとしても、それをつくったのは人間なので、その人の能力以上のことはできない、というのもどこかで見た。確かに、AIが人の感情まで網羅するようになったら、それはもう神じゃないか。そしてそれをつくった特定の人間は神より上? どうなんだろう……訳が分からなくなってきたので、これ以上はやめておく。

人の心は取り扱いが面倒だ。編集の仕事で例えると、記事1本書く際できるだけ感情を排して淡々と描写するほうが、より多くの人に受け入れられる。しかし同時に、ありきたりなものとなる。これからそういうものは、プログラムやAIがやってくれるだろう。人は、人にしかできないことをすべきなのだ。細かいことを言うと、ルーティンワークも感情を込めることで出来が変わってくるらしいので、単純な話でもないだろうけど。

放っておいてもそういう時代は来るのだから、興味のない人は何もできなくても大丈夫だろう。ただ、知っているのと知らないのとでは違う。もっといえば、「できること」と「できないこと」を理解しているだけでも違う。
今まで当たり前に享受してきたシステムが崩れた時に対処できるのは、能動的に生きている人間だけだ。デジタルとアナログ、うまくバランスをとることがいい人生を送るヒントだと思っている。

雑なまとめ

あっちこっちに話が飛んでしまったが、まあエンジニアをやったからこそ、こういう情報を得たり体験したり人と関わったりして、今の自分があるのでよかったなと思う。

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