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「愛」って言葉が好きじゃない。から考える日本語【小説あとがき】

恋は分かるけど、愛は分からない。恋愛に限らず〇〇愛はあるけど、”愛”ってことばはあんまり好きじゃない。ちまたにあふれる○○愛に該当する感情は自分も持っていると思うし、完全に否定するつもりはない。でも、言葉にすると途端に限定的で陳腐なものに感じる。

今日完結させた小説「ココイロ談義」のラストを変えた時に、上のようなことを考えました。「愛ってことば、なんか避けたい」という個人的嗜好から展開した日本語の良さなど書きます。

人の数だけある解釈

わたしのブログでたびたび登場している数学者の知り合い。彼はことばについて興味深いことをいっていました。

数学は言語だ。
ことばは人によって解釈が変わるが、数学は解釈がただ1つに決まる。

ことばっていうのは、人の数だけ解釈の余地が生まれる一方で、数学はどんな人が読んでも1つの解釈にしかならないのだとか。おもしろい見解だと思いました。数学者の間では「コミュニケーションの行き違い」や「誤解」なんてものはナンセンスなんでしょうか。

仕事やプライベートでいろんな種類の文章に触れていると、それが分かる気がします。数学に近づけるべく、解釈を1つに絞らなければならない文章の最たるものはニュースや論文でしょうか。人によって変わったら大変ですもんね。過去、新聞記者の上司が「形容詞を使うな」といっていた理由はそれです。形容詞は主観ですから。

他方、文芸、絵画に音楽といった芸術は人の数だけ解釈があっていい。わかりやすい例をいうと、音楽は指揮者によって、解釈の違いでまったく違う音になります。

ちなみに文字の芸術はわたしの中では文芸ではなく「文楽(ぶんがく)」なんですが、「文楽(ぶんらく)」という言葉がもうすでにあるというのが残念。文章ってのは音楽だと思うんです——が、その話はまた別の機会に。

「月が綺麗ですね」by 夏目漱石

ということで「愛」についても説明している人はたくさんいますが、解釈は人それぞれだなと感じます。汎用性が高すぎて、場合によっては同じ言葉とは思えないほど。

英語の「I love you」を初めて和訳にした夏目漱石が

月が綺麗ですね

と訳したのは有名な話。最初聞いた時は日本の恥じらいの文化か知らないけど、少なくとも現代においてはキザすぎるセリフだなと思いました。当時はみんな腑に落ちたんでしょうか。でもこの話も真偽が不明だったり、そんなロマンチックな意味で言ったわけでもない、みたいな説を唱えている人もいるようです。

日本に「愛」の概念はなかった

そんな中、私の興味をひいたのは「”愛”という概念は日本になかった」という話。探してみるとこんな記事もありました。

「愛」って西洋文化ならではの概念だったのだ、だからちょっと抵抗があるんだ、というのがすごく腑に落ちたんですよね。この記事によると、それに近いものはあっても愛という言葉で表現することはなかった、とのこと。

夏目漱石も気持ち悪さを感じながら、苦肉の策として上記の言葉をいったとしたら最高だなと思いました。

でも今はドラマでもマンガでも小説でも普通に「愛してる」とか使いますよね。創作だからいいんですが、リアルでは自分がいうのもいわれるのも嫌です。わたしは自分に「愛してる」といってきた人のこと、まったく信用してませんでした。

あいまいを好む日本人

こまかい感情を「愛」という言葉に限定したくない。というのは日本人だからかもしれません。日本語のあいまいな表現というのは世界に類を見ないとか。それは日本人があいまいであることを良しとする民族だから。日本には八百万の神がいるというのも関係あるのかな。

「空気を読む」とか、そういうことですよね。あいまいさについては、いいところもある反面、イライラしちゃうこともあります。

この「イライラ」という擬態語=オノマトペも日本特有だそう。わたしは言葉遊びがすきなので、家族の前だとオノマトペばかりしゃべっていますし、わたしが書く小説にも多用しています。文字のリズムや音から発せられる音楽的要素がいいんですよね。

ちなみに日本語のオノマトペは4,000とか4,500とかいわれているそうで、「英語は擬音語のみ150」と書いてあるサイトもありました。オノマトペなかったら感情をどのように表現したら良いのでしょうか。オノマトペのない世界は想像がつきません。

日本の文芸は日本語だからこそ

そう考えると、日本人特有の思想や美を乗せた国内の文芸において、日本語以外でその良さは伝えられるのでしょうか。この話もツイッターで誰かがいっていて納得しました。

世界的な著書は英語であり、英語を使う人たちの思想を元に書かれたもの。日本語と英語両方とも堪能で、自分の日本語をそのまま英語に訳する人ができるならまだしも、どれだけ素晴らしい小説を書こうとも、それを訳してくれる人がいないと無理です。訳してくれる人がいたとして、解釈が違ってしまえば意味がない。今の世界でそれをするには相当な実力者かつ有名人でないと実現できないでしょう。そして、それを評価するのは英語を母国語とする人たち。日本人のあいまいさを理解できるのでしょうか。

といったことを考えると、世界で評価される国内文学って本当に文学として素晴らしいのかな? とも思います。わたしの場合、そもそも国内外関係なく、世間で突出して評価が高いものでいいと思えるものは少ないんですけどね。

この小説について

これもエブリスタで数年前に書いた小説です。女子高生の失恋話と友情の話で、ラストシーンで「愛」についても書きました。

簡単にあらすじを書きますと、失恋したばかりの「晴子」は自分の古風な名前がずっとキライだったのですが、晴子の名前の由来についてふと思い出します。それは晴子が生まれた日がキレイな青空で母親が感動したから、でした。それを振り返り、友達の「海月」と一緒に「これは愛だね」といいあう。みたいな流れにしていました。ここでは家族愛を表現したかったのですが、「家族だろうが何だろうが愛は違和感がある」とずっと引っかかっていたので、noteで公開する際にガラっと変えました。変えてスッキリしました。

ことばについての考察はこちらの記事でも書いてます。

「書くこと」については日頃からよく考えています。





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