その言葉は「呪い」なのか「願い」なのか
最近、こんなテーマについて考えています。文字通りの呪術的なヤツじゃないですよ。丑三つ時に藁人形が的なヤツじゃないですよ。比喩です比喩。ヒーユー!、こう書くと呪いなんて言葉を扱うのにテンション高めに見えるね。
今から扱おうと思う「呪い」は過去の経験が自分の行動や思考を縛っている現象についてです。特に「誰かの言葉・行為」が起点になっているモノについて考えてみます。
01.だれかの言葉が自分の思考・行動を縛る
自分も今から思えば「呪い」に身を置いていた気がします。複数の人から言われた「○○すべき」って言葉が結構な重さで自分にまとわりついて、振り払うのに時間がかかった。そもそも振り払うべきモノだとも気づいていなかった。
愚直にその言葉を守ろうとすると、どんどん苦しくなっていくんですよね。「自分らしさ」とか「自分の良さ」を伸ばそうとすると結構な対極に位置するモノの考え方や行動の指針だったんです。
ある瞬間に、「あれ?、なんでコレ愚直に守ってんだ?、むしろ逆じゃね?」と気付けたから、その呪いは解くことができました。
でも、呪いってかけられたその瞬間は気づかないんですよ。
ドラクエみたいに呪われた瞬間に「デロデロデロデロデ〜ンデン♪」なんてBGMは流れてくれません。自分のステータスウインドウに「のろい」なんて表記はついてくれません。リアルの世界で受けた呪いは、とてもゆっくりと自分たちを蝕んでいきます。呪いだと気づかせないのが呪いの呪いたる所以です。
まぁ、リアルな生活を送っている最中にあのドラクエの呪いBGMを聞いたら心臓が止まると思いますけどね。あの時代を生きた多くのドラクエプレイヤーにとって「ぼうけんのしょ」が消えるトラウマBGMやし。それはそれでイヤだ。笑
だから気付けば、ジワジワと呪いに侵食されている。それが呪いだったんだと気づくためには「自分と向き合う」を常日頃からやってないと中々難しい。そんなことを感じます。
でも、呪いを与えてきた相手はそもそも「呪いをかけよう」なんてことは思ってないんですよね。本気でそうすべきだと思っているから。で、それはある意味で間違っているわけでもないから。(意図的に相手を窮地に陥れようとする思考から生まれた呪いは除きますよ。)
ならば、呪いとはいったい何なのでしょう?
02.「呪い」になる前は、一体なんだったんだろう?
「呪い」って言葉を「他者から自分に与えられた思考・行動の方向づけ」と解釈してみると、途端に違う景色が見えてきますよね。
呪いが呪いとして機能するのは、その「思考・行動の方向づけ」が自分の本意とはズレるからです。
逆に考えてみましょう、呪いが自分の本意と合っているならそもそも呪いではないですよね。むしろ、自分をありたい姿に導いてくれる加速装置にもなります。これはいっそ「願い」と呼んだ方がいいかもしれません。
もし「いまの自分」にとっては呪いである言葉があったとしても、「以前の自分」にとっては願いであったかもしれない。その逆に「いまの自分」には呪いでしかない言葉があったとしても、「未来の自分」にとっては願いとなるかもしれない。
「呪い」であるのか「願い」であるのか、これは自分の「あり方」によって変わってくるモノなんだと思います。だから自分がどうあるのか、「あり方」は解像度を高くしたいんですよね。
いまの自分の思考・行動を方向づけている誰かの言葉が「呪い」なのか「願い」なのか、それが分からないってのはコワイことです。自分のありたい姿がボヤっとしていると、方向づけに対する違和感すら抱きません。
何も疑わずに信じ切っている相手の言葉が実は呪いだった。まったく信用していない相手の言葉が実は願いだった。これを避けるためにはいまの自分に対する自己認識、未来の自分に対するありたい姿、この辺りを思い描くことが大切なんじゃないかなと、そんなことを思うのです。
そのうえで、言葉や出来事をどう受け止めるかは「自分で決める」。
受け取るも、拒絶するも、相手に気を遣ってそっと横に置いておくも自由です。どんな受け取り方をするも自由なんですが、受け取り方を決めるのは自分だけだと思うのです。それが受け手に大切なこと。
03.自分もいつの間にか誰かに「願い」を届けているようで、実は「呪い」をかけているかもしれない
一方で、自分たちは受け手側であると同時に発し手側でもあります。だから、意図せず相手に呪いをかけてしまうこともあるはずなんです。
発し手である自分としては願いのつもりだった、でも受け手にとっては呪いとなってしまった。こんなことがあるはず。
自分が呪いを受けてきたことと同じように、自分も誰かに呪いをかけている。受け手は「自分で決めることが大切」。でも、だからと言って発し手は願いを好き勝手に乱発していいんだろうかと、そんなことも同時に考えるのです。
相手のことを真に思った言葉であっても同じなんですよね。それがいまは願いであっても呪いに変わることもある。こわいことです。
だけど、呪いへの変化を恐れていまの願いを言葉にしないのもまた違う。
声に出したい、届けたい、真摯に相手のことを考えたい、願いとして届いてほしい、だけど決して呪いにはなってほしくない、この言葉に縛られるならすぐにソレを忘れ去ってほしい・・・と、ハタから見ればダダをこねる5歳児です。
ここについての答えはありません。しかし、自分なりに呪い化を避けるために意識して実践していることが2つあります。いつも出来ているとは限らないのですが、できる限り「人そのもの」に相対するとき、自分が意識していることです。
04.呪い化を避ける方法その①【主観として伝える】
いまの自分の言葉が「願い」になるのか「呪い」になるのか、それは分かりません。いまと未来はきっと変化するから。でも、仮にもし「呪い」になったとしても、解きやすくしておく布石は打てるんだと思っています。
それが、「自分はこう思う」と主観として伝えること。
僕と会話してると「僕はこう思う」ってやたらと使っているのに気づく人はいませんかね。かなり意識的に使っています。
受け取った人にとって、自分の発した言葉が「願い」になってくれればそれは嬉しいこと。でも、仮に「呪い」になったとしても、「単なる一個人の意見」であることが強調されているならば呪いを振り払うこともずっとカンタンになります。「別にあの人個人の意見だし」と考えやすくなりますよね、ココです。
日本語は主語を曖昧にする言語です。
だから、どうしても言葉の意味する世界が大きくなりがちです。単に一人の人間の意見でしかないモノなはずなのに、世界のあるべき姿を指し示しているような構図になってしまうこともある。
「一般論化」「普遍化」して表現したがゆえに、余りにも美しく暴力的になってしまった言葉が世の中には溢れています。全部正しく見えるんですよね、でもそれは「自分から見た世界の切り取り方」でしかないはず。そう思っています。
それに、「僕はこう思う」と明示しながら相手に相対することは、人間と人間で相手に向き合っている気がするんです。これを「世間では」とか「この職業では」とか「ウチの会社は」とか、主語が大きくなってしまうと相手と自分ではなく相手とその概念を向き合わせているようなことになるんですよね。
「新しい価値観」を提示する場合もきっと同じです。例えば「多様性が大切だ」を自分の主張として相手と会話するとイメージしてみましょう。
このときに僕は「多様性vs相手」という概念vs人間の構図にはしたくないんですよね。だから、「“私は”多様性が大切だと考えている」そんな自分とあなたで対話しましょうよ。って話し方になるんです。
「僕はこう思う」と主観的に表現するのは、何も覚悟がなく逃げているわけではありません。予防線を張る意図はない。伝えたい想いに覚悟と熱を込めることと、相手の呪いにならないように意識を向けること、これは両立すると思っています。
相手に正面から向き合って、相手のいまと未来に目を向けるからこそ、「自分の主観」であることを明示しておくことが責任のように感じているんです。
自分という主観を言葉にして明確に示すから、相手と自分で「人格同士のぶつかり稽古」ができるんだと思っています。どすこい。
05.呪い化を避ける方法その②【“人“を思考の起点にする】
もう一つ意識していること。これは思考のプロセスの中でまず「人」を最初に考える思考法です。結構難しいのでいつも上手くはできません。でも、できる限りそうあろうと意識しているポイントです。
世の中には様々な「○○すべき」が溢れていますよね。言葉を変えると「○○したほうがいい」「○○してほしい」「○○しなさい」などなど、バリエーションは豊かです。先に挙げた「思考・行動の方向づけ」を他者に及ぼそうとするモノです。
ちと話題が逸れそうですが、「べき」に溢れる世の中は中々息苦しい。多様性を認める社会は「べき」の乱立する社会です。現実に多様性を生むとは、対立しあう「べき」をいかにギリギリ共存できる距離に設置するか必死の調整が山ほど生まれる社会です。多様性はめんどくさい、ただ、それを分かったうえで求めていく。そんな世界観なのかなと思います。
とは言え、「べき」は一つの意志の現れです。だから「自分が発さないように」とまでは思っていません。ただ、自分の中で「べき」を発するときの思考プロセスに注意を払いたいと思うのです。
この「べき」が思考に現れるとき、大抵の場合は「ガワ」が先にきています。自分の思考の中でもガワが先に来ていると思った方がよい。思った方がバイアスに囚われないなと感じています。
さてさて、ここで挙げた「ガワ」とは何なのか?
例えば社会規範、あるいは企業の目的、職種に当然と思われている責務、地域のルール、もっとフワっと相手の属性について抱く「あるべき姿」。この辺りがガワです。フレームとか常識とか、範囲とか、そんなモノだと思ってもらってもいいです。
思考プロセスを紐解いてみると、おそらく「べき」は最初に「ガワ」をイメージさせると思うんです。
「こんなビジネスマンであるべきだ」「こんな社会であるべきだ」「こんな親であるべきだ」、このあたりの思考です。これらはすべて、伝え手のメガネで見たガワの切り取り方です。だから「こんなビジネスマンであるべきだ」は人によって定義が全然違うんですよね。
で、「ガワ」と「べき」はセットになっています。その「ガワ」を最初にイメージした後、その次に目の前にいる「人」を見る。すると「ガワ」と「人」の間にある「ギャップ」が見えてくる。すると「ガワ」と「人」との「ギャップ」を埋める「べき」につながる。
順番で表現しましょう。この思考は
①「ガワ」→②「人」→③「ギャップ」→④「べき」
です。
この場合、ガワ側に「人が合わせること」を求めます。(ガワガワって声に出して言ってみましょう。笑)
それはイヤなんです、仕組みがあって人間があるんじゃない。しかも、ガワは普遍的なモノであるかのように振る舞いますが、実は発し手の主観から生まれたガワでしかない。自分がそんな主観で作り上げたガワを一般化して主語をデカくするのもおかしなことです。
さらに、この思考プロセスは目の前の人の「人間性」を必要としていないんです。だいぶ極端な表現だとは思いますが、なるべく避けたいと思っている思考プロセスです。
だから、僕は「人」を最初に考えたいんです。
「人」を真正面から見つめると、そのさきに「ガワ」が見えてくる。すると「人」と「ガワ」の「ギャップ」が見えてくる。そうすれば「人」と「ガワ」の「ギャップ」を埋める「べき」が見えてくる。
順番で表現しましょう。この思考は
①「人」→②「ガワ」→③「ギャップ」→④「べき」
です。
同じように最後には「べき」にたどり着いている。でも、この「人が先にある“べき”」は「ガワが先にある“べき”」とはかなり異なるはずなんですよね。
なぜなら、「人」を先にするとそもそも「ガワ」がめちゃくちゃ自由になるからなんです。この「人」のあり方に沿うならこんな「ガワ」もあるよね、あんな「ガワ」もあるよね、あるいは元々のガワはこんな解釈もできるよね、なんてカタチでスンゲぇ自由度を持つんです。
そこから見出した「ギャップ」や「べき」は、ちゃんと「人」に紐づいているんです。この思考を辿ると、「願い」を人に基づいて見出しやすい。「ガワ」に基づくと呪いになりやすい。そんなことを感じます。
まぁ、それでも呪いになることもあるから、最初に挙げた「主観」をまじえるんですけどね。ただ、主観を交えるモノの「人」を起点にすると表現の主体が相手になります。
①「ガワ」→②「人」→③「ギャップ」→④「べき」
この思考プロセスの表現主体は発し手、つまり自分です。
①「人」→②「ガワ」→③「ギャップ」→④「べき」
こっちの思考プロセスの表現主体は受け手、つまり相手です。
この辺りを意識しています。
まぁ、上手くいかないときも多いですよ。ついつい自分も「ガワ起点」になりがちなので。でも、ここ一年ぐらい「あり方」について対話する機会に身を置くことで、自分が「対話」に向き合うスタンスが見出せたような気もしているんですよね。中期人生計画は、まさにこのスタンスで向き合おうと努めています。できてないときは容赦なくツッコミをください。
06.呪わない、呪われない、願い、願われる
で、最初の話題とも関連するのですが、「ガワ」が先にくる相手の言葉をどう受け取るかは自由です。ガワ側に自分を向き合わせた方が「願い」として機能する場合もあるでしょう。そこは自分としっかり向き合いながらしなやかに言葉を受け止めてもらえたらと思います。
ただ、いかに真っ当な言葉出会ったとしても、あなたの人間性そのものにフタをさせて、組織や役割の型枠に押し込むようなモノは呪いだと思っています。しかも、ここに「あなたのためだよ」なんて枕詞がついていたらなおのことヤバい。
あるいは、これが大義名分のある世界を前進させそうな素晴らしい概念であったとしても、個人にとっては呪いになりうることがあると、それは忘れないでおきたいのです。
いつだって願いと呪いを受け取ると同時に発してもいる。だから、その両者である自分がどうあるのか、もっと考えていきたいなと思うのです。あんま明確な結論があるわけでもないです。だからひとりごとね。笑
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