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クラウゼヴィッツが語る19世紀の兵站の歴史とその意義

軍事学の歴史で兵站の意義を認め、その分析を展開した最初期の人物として挙げられるのはアントワーヌ・アンリ・ジョミニ(1779~1869)です。確かにジョミニは『戦争術概論』において、戦域のどこに基地を置くべきか、どのような兵站線を構成すべきかが、作戦に大きな影響を及ぼすことを論じています。

そのため、戦略の研究では名高いカール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831)が兵站の研究でジョミニのような体系的な分析を展開していないようにも思えます。ただ、クラウゼヴィッツが兵站の意義をまったく考慮していなかったと解釈してしまうと、それは行き過ぎた議論になるでしょう。この記事ではクラウゼヴィッツが兵站についてどのように考察していたのかを紹介してみたいと思います。

近代戦争における給養方法の変化

クラウゼヴィッツは、軍隊に対する兵站支援のあり方が戦争にどのような影響を及ぼしていたのかを歴史的アプローチで考察しています。その考察によれば、近代以降の戦争に使用される軍隊の規模は、中世までの軍隊の規模に比べて著しく大きく、その戦闘力を維持することは非常に難しくなりました。このことをクラウゼヴィッツは次のように記しています。

「軍の給養は、近代の戦争においては往時に比して遥かに重要な事項になった。しかもそれは二件の理由による。第一は、一般に近代の軍は、兵数において中世の軍はもとより古代の軍に比してすら著しく巨大になったということである。なるほど往時にも兵数が近代の軍に匹敵し、或はこれを凌駕するような軍の現れたこともある。しかしそれは極めて稀有な一時的現象にすぎなかった」(クラウゼヴィッツ、中巻、216頁)

さらにクラウゼヴィッツは戦争で使用される軍隊の規模が大規模化しただけでなく、その活動の形態にも変化があったと考えています。というのも、近代以降の軍隊は戦地でますます広域的、連続的に行動するようになり、兵站支援もそれに応じて常続的なものでなければならなくなったためです。

「第二の理由は、これよりも遥かに重要でありまた近代に特有のものである、即ち近代の戦争における軍事的行動は、以前に比して遥かに緊密な内的連関を保ち、また戦争の遂行に当たる戦闘力は不断に戦闘の準備を整えているということである。往昔の戦争の大方は、互に連絡のない孤立した戦闘から成り、またこれらの戦闘は、中間の休止によって分離されていた。そしてかかる休止期には、戦争もまた実際に休止し、政治的意味においてのみ存在するか、さもなければ彼我の軍は互に隔絶していたので、いずれも相手の軍に頓着することなく、もっぱら自軍の必要を充たすのに汲々としていた」(同上)

つまり、近代戦で使用兵力が増大しただけでなく、作戦行動が絶え間なく続くようになったことで、それまでの場当たり的な方法では兵士を養うことは不可能になったのです。そのため、政府の責任で軍隊を管理し、給養する必要が生じたとクラウゼヴィッツは述べています。

ただ、この制度も完全に軍事的要求に即応できるものではありませんでした。兵士の糧食に関しては、まず政府が現金で購入するか、あるいは直轄領の生産物を現物で手に入れた食材を倉庫に貯蔵していました。作戦が始まると、輜重兵(後方支援、特に輸送を専門とする兵)がそれらを馬車などで輸送しました。輜重兵が運んだ食材は部隊の宿営地の付近に開設されたパン焼所に運ばれ、そこで焼き上げたパンは各部隊に配給され、それらを兵士は食べていたのです(同上、219頁)。

軍馬の給養もやっかいな問題でした。軍馬が一日に消費する馬糧の容積は、兵士が一日に消費する糧食の容積のおよそ10倍だったとクラウゼヴィッツは概算しています(同上、220頁)。

その所要を満たせるだけの輸送力を確保しようとすると、後方に輜重兵が大勢必要になり、それだけ戦闘に参加できる兵力が減少してしまいます。そのため、現地で調達することが一般的でした。クラウゼヴィッツは徴発隊を編成し、現地で調達することが一般的であったと述べています。

フランス革命戦争・ナポレオン戦争の影響

クラウゼヴィッツによれば、軍隊の兵站が倉庫に依存していたのは17世紀の後半から18世紀までのことでした。1789年にフランス革命が勃発し、1792年にフランス革命戦争が勃発すると、フランスはこのような倉庫を基礎にした給養の方法に限界を感じ、現地での徴発、そして時には略奪を行うことによって軍隊を維持する方法を模索するようになりました(同上、221頁)。

数十万名の規模の兵力をこのような方法で維持しようとすることは現実的ではないように思われるかもしれませんが、クラウゼヴィッツは必ずしも不可能ではなかったと述べています。人口密度が高い都市であれば、その都市人口が一日に消費する糧食を軍に提供することは可能であり、しかも何ら特別な準備を必要としなかったとクラウゼヴィッツは述べています(同上、222頁)。

都市化が進んでいない地方で同じように糧食を提供することを命じたとしても、維持できる兵力はせいぜい3000名から4000名程度であっただろうとも述べています(同上)。ただし、農業生産が盛んな農村であれば、人口規模が極めて小さな村落であったとしても、そこに貯蔵される糧食は豊富であり、以前に別の軍が宿営したことがないのであれば、人口の3倍から4倍の兵力に糧食を提供することはまったく難しくないとされています(同上)。

「人口が中位の田舎、即ち1平方マイル当り2000ないし3000の人口を有する地方では、15万の戦闘員を含む軍に諸部隊による共同の戦闘を不可能ならしめないだけの狭い正面幅を与えても、1日ないし2日の給養を舎主および市町村に求めることができる」(223-4頁)

このような方法によってナポレオンが率いるフランス軍はかつてない速さで進軍することが可能になりました。もちろん、現地での調達に依存する軍は一地点に長期にわたって中流することができないという限界があるため、クラウゼヴィッツはそのことも指摘しています。

当時、後方から補給を受けることができなくなった場合を想定し、それぞれの軍の戦闘部隊と後方支援部隊にそれぞれ3日間から4日間の糧食を携行させ、合計で1週間程度は無補給でも耐えられるように準備していたことも述べられています(同上、225頁)。これだけの携行糧食があれば、別の地域に移動し、そこで徴発するまでの間は兵力を維持することが可能です。このような方法がフランスで創出されたことによって、他のヨーロッパの列強も同じような給養の方式に変化せざるを得なかったとクラウゼヴィッツは述べています。

「そこでフランス革命戦争の初期における戦役このかた、フランス軍の採用したこの供出方式が常に給養方法の基礎となった。するとフランス軍に対抗する同盟軍側も、この供出方式に鞍替えせざるを得なかった。そうなるといったん採用したこの方法を捨てて元へ戻るわけにいかなくなった。戦争指導の遂行力、その軽快と自由とをもたらすには、この休養方法しかないのである。たとえ軍がどの方向に行進しようとも、この方法によれば、普通の場合なら最初の3週間ないし4週間は食料の心配がないし、またその後は倉庫によって補給さえ得るから、戦争はまさにこの給養方式によって行動の自由を完全に確保したと言ってよい」(231頁)

給養の方式と戦争の遂行は相互に影響し合う

クラウゼヴィッツは以上のように考察した上で、給養の方式と戦争の遂行との間には相互に影響し合う関係があると説明しています(同上、233頁)。戦争を遂行するために必要であるならば、給養の方式は見直されますが、いったん給養の方式を確立すると、そこから離れて戦争を遂行することは難しくなります。これは兵站と戦略の関係と置き換えて考えてもよいでしょう。つまり、兵站基地から遠く離れて移動することを妨げることもあれば、部隊の戦略機動の必要から兵站支援のあり方が変化することもあるのです。

クラウゼヴィッツは、究極的には軍隊の運用と給養の関係は、戦争の形態によって変化するものであり、もしひたすらに敵との決戦を求めて軍を機動展開するような場合は、給養が二の次になるだろうと述べています。しかし、敵と味方の兵力が拮抗し、同じ地域で一進一退を繰り返すような持久戦になれば、給養の方が重要な問題となり、「経理担当者が将帥の役目をし、戦争指導は糧秣車の官吏に移るのである」と述べられています(同上、236頁)。

結論:クラウゼヴィッツが考える兵站の意義

ジョミニは兵站線の構成、つまり基地と部隊との間の交通手段をどのような方向、距離、配置で構成するべきかを重視して兵站を研究していましたが、クラウゼヴィッツの議論を調べると、作戦参加の兵力が必要とする糧食を手に入れる給養方式に重点を置いていたことが分かります。戦争の形態によってどのような給養方式が採用されるのか、それが戦争指導においてどれほどの意義を持つかは変わると論じていたことは、クラウゼヴィッツの戦争理論が兵站の研究に与えた影響として興味深いでしょう。クラウゼヴィッツが兵站の意義を見通していたという解釈は間違っており、彼が視野の広い軍事学者であったことが分かります。

参考文献

クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

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