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書評『キュロスからアレクサンドロスへ:ペルシア帝国の歴史』(1996)

フランスの特別高等教育機関コレージュ・ド・フランス教授ピエール・ブリアン(Pierre Briant)は、1996年に『キュロスからアレクサンドロスへ:ペルシア帝国の歴史(Histoire de l'Empire Perse. De Cyrus à Alexandre)』を発表しました。この著作は世界各国の研究者から注目を集め、2002年に英訳が出版されましたが、残念ながら2020年の時点で日本語に訳されてはいません。

今回は、このブリアンの業績がどのような内容なのかを紹介したいと思います。原語のフランス語ではなく、英語で読んでいることを事前にご了承ください。

ペルシア帝国の実像をめぐる解釈の対立

この著作はキュロス二世(紀元前600年頃~紀元前529年)の時代からダレイオス三世(紀元前336年~紀元前330年)までのアケメネス朝ペルシアの歴史を叙述したものです。

ブリアンはアケメネス朝ペルシアの支配体制、権力構造をめぐって歴史学者の間では論争があったことから議論を始めています。これまでの調査研究からペルシア帝国の内部には多種多様な民族が存在していたことは間違いありません。しかし、当時のペルシア人がどこまで地方の諸民族を統制できたのかは明らかではありませんでした。

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この議論は二つの見解に分けて整理することができます。第一の見解は、ペルシア帝国を皇帝を中心とする緩やかな連合体であったと考えるものです。この見解によれば、ペルシア帝国における地方に一定の自治権、独立性が残されており、中央に対する義務は朝貢と軍役に限定されていました。

しかし、これに対してペルシア帝国は中央の行政機構の統制力を重視していたという第二の見解もあります。つまり、ペルシア帝国は形式的に一体化していただけでなく、地方の勢力から高い忠誠を得ていたはずだと考えます。ブリアンがこの著作で主張するのは第二の見解です。

ブリアンが提示するペルシア帝国の歴史

これまでのペルシア帝国に関する歴史的解釈が、ギリシア人の史料に大きく依存してきたことをブリアンは指摘しています。なぜなら、ペルシア人が書き残したペルシア帝国の歴史に関する史料は驚くほど限られているためです。つまり、ペルシア帝国の歴史を記述するには、情報源にかなりの偏りが存在することを、よく考慮に入れておかなければならないというのがブリアンの姿勢です。

第1部「帝国を築いた者たち:キュロス二世からダレイオス一世」でブリアンは自らの立場を明らかにした上で、史料の制約について検討しており、またダレイオス一世の治世までを記述しています。

第2部「偉大なる王」では、王の役割、裁判所、行政機構について分析されています。そこでペルシアの地方総督や貴族階級の存在も取り上げられています。ペルシアで地方総督に一定の自治が認められていたものの、その範囲については厳格に制限されていたことがブリアンによって指摘されています。

第3部「領土、人口、依存型経済」では、さらに広い視野でペルシア帝国の特徴が記述されており、その領土にどの程度の人口集団が存在していたのか、また経済的活動がどのように行われていたのかが考察されています。ここで地方総督の権限は皇帝によって厳しく制限されていたことが述べられています。例えば、地方総督は軍隊を動かすことができましたが、それはごく限られた任務を遂行するために認められた権限に過ぎず、最終的な指揮権は皇帝にありました。

第4部「クセルクセスからダレイオス三世:動乱の帝国」はクセルクセス以降の歴史について述べています。ギリシア側の史料によれば、ペルシアの勢力は紀元前4世紀に衰退していたとされていますが、ブリアンは限られたペルシア側の史料を駆使することによって、その評価の妥当性について検討を加えています。その結果、ブリアンはこの時期のペルシアに対する解釈が必ずしも正しいものとは言えないと判断しています。この成果は第5部「アケメネス朝の長い時代における4世紀とダレイオス三世」に取り入れられており、ダレイオス三世の評価の見直しにも繋がっています。

これまでダレイオス三世は統治の能力に欠けた皇帝として評価されてきました。彼は無能であり、国土を防衛するために多数の傭兵を雇ったとされてきました。しかし、これらはギリシア側の評価です。ダレイオス三世は傭兵を雇ったのではなく、各地の地方総督から部隊を招集することができました。1948年に出たアルバート・オルムステッド(Albert Olmstead)の著作『ペルシャ史(History of the Persian Empire)』で、ダレイオス三世が無益な支出で財政収支を悪化させ、各地で反乱が頻発するようになっていたことが述べられていましたが、ブリアンはこのような解釈は全面的に見直されるべきであると批判しています。

最後の第6部「帝国の滅亡」は、アレクサンドロス大王の侵略を受けてからのペルシア帝国の歴史について述べています。確かに、ペルシア軍はアレクサンドロスが率いるマケドニア軍に敗北を喫しました。ダレイオス三世は最終的に側近に裏切られて殺されたという説もあります。しかし、ブリアンはアレクサンドロスがペルシアの首都スサを攻略した後でさらにダレイオス三世の身柄を確保するために東へ兵を進めなければならなかった理由に注目しています。

もしダレイオス三世を中核とする帝国の体制が脆弱であれば、アレクサンドロスがダレイオス三世を追跡することに何ら政治的な利点を見出すことができません。ブリアンはアレクサンドロスが後に新たな皇帝として君臨したことを考慮すれば、ダレイオス三世の死を確かなものにする必要があったのではないかと主張しています。

むすびにかえて

ブリアンの議論が正しいとすれば、アレクサンドロスの侵略を受けた時点ですでにアケメネス朝ペルシアの支配体制は大きく動揺しており、政治的にも軍事的にも持ちこたえることができなかったという解釈は受け入れられないことになるでしょうペルシア帝国の政治史を理解する上でこの議論は大変重要な意味を持っています。個人的には末尾の「研究ノート」にまとめられた文献情報が大変有益であると思います。ブリアンがどれほど多くの情報源を参照しながら議論を展開しているのかを知ることができます。

ここで紹介している文献は研究者向けの本格的な内容ですが、ブリアンは一般向けの解説書も書いています。例えば、ピエール・ブリアン『ペルシア帝国』(知の再発見双書)創元社、1996年は値段も内容もお手軽であり、イラストも豊富なので入門者でも読みやすいかと思います。

文献情報
Pierre Briant, From Cyrus to Alexander: A History of the Persian Empire, Trans. Peter T. Daniels, Eisenbrauns, 2002.

第1部「帝国を築いた者たち:キュロス二世からダレイオス一世」
第2部「偉大なる王」
第3部「領土、人口、依存型経済」
第4部「クセルクセスからダレイオス三世:動乱の帝国」
第5部「アケメネス朝の長い時代における4世紀とダレイオス三世」
第6部「帝国の滅亡」
研究ノート

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