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論文紹介 朝鮮戦争で中国軍が米軍の攻撃を撃退できることを実証した上甘嶺の戦い

朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線の中部、ソウルから北北東に約90キロメートル進んだところに上甘嶺(じょうかんれい)と呼ばれる場所があります。今では北朝鮮が支配しており、江原道の金化郡に位置します。

1952年10月14日から11月25日にかけて、この地域では中国軍、アメリカ軍、韓国軍などが激戦を繰り広げました。この一連の戦いは中国の文献では上甘嶺戦役(上甘岭战役)、アメリカの文献ではショーダウン作戦(Operation Showdown)と呼ばれています。一連の戦闘の結果、アメリカ軍は中国軍の強さを再認識し、アメリカ政府も朝鮮戦争の問題を武力で解決することが不可能だと考えるようになった重要な戦闘です。

最近の調査研究の成果により、当時の中国軍がアメリカ軍の攻撃を退けることができた一因として、長期間にわたるドクトリンの研究開発ができたことが指摘されています。特に1951年7月に開始された外交交渉で戦況が安定していた間に、中国軍の部隊では新しい戦い方が編み出されていました。

Gibby, B. R. (2017). The Battle of Shangganling, Korea, October-November 1952. Journal of Chinese Military History, 6(1), 53–89. doi:10.1163/22127453-12341308

1950年に参戦して以来、中国軍はアメリカ軍との戦闘の経験を積み、新たな戦い方を模索するようになっていました。作戦の指揮をとっていた彭徳懐司令官は1951年6月以降に中国軍が勝てなくなった要因として、迅速な機動と大胆な奇襲を重視する軽歩兵の戦術が、アメリカ軍の陣地戦には通用しないことが大きいと分析していました。

1951年7月に開始された捕虜交換をめぐる交渉で難航していたことで、彭徳懐は中国軍の作戦を機動戦から消耗戦に移行させる時間的猶予を手にしました。各部隊に分かれていた砲兵の編成は抜本的に見直され、師団の作戦に従って一元的、計画的に火力を運用できる体制がとられました。後方支援能力が強化され、弾薬の集積量も拡充されたことも、火力を発揮する上で大きな改善点でした。これらの改革で参考にされたのはアメリカ軍の戦術だったようです。

1952年にアメリカ軍の指揮をとっていたマーク・クラークは戦後に1951年の末から中国軍がソ連製の火砲を集中運用することで歩兵を支援するようになったことを語っており、その軍事的意義を「朝鮮戦争に新しい要因を付け加えることになった」と表現していました。当時、中国軍は火砲の偽装、隠蔽、掩蔽を徹底し、万全の防護を施し、アメリカ軍の航空攻撃の効果を低下させました。また、中国軍が陣地を地下坑道で結んだことによって、部隊や弾薬の移動を上空から偵察することが困難になっていきました。

アメリカ軍の部隊を消耗させる目的で行われる小規模な襲撃でも、この地下坑道が戦術機動のために利用されていました。中国の資料では、1952年8月以降に中国軍は3か月分にわたって戦闘を継続できるだけの弾薬と糧食を地下に備蓄していたと記述されており、その規模の大きさから防御陣地の強度が非常に高い水準にあったことが伺われます。

アメリカ軍は1952年10月に上甘嶺の戦闘で部隊を前進させる前に、大規模な近接航空支援を実施しているのですが、この支援で中国軍の砲兵にほとんど損害が出ていませんでした。このため、上甘嶺で攻撃前進を命じられた韓国軍の第二師団とアメリカ軍の第七師団の将兵は敵の砲弾で命を落としました。

著者はその戦闘の経過を詳細に述べていますが、ここでは第七師団の様子を取り上げます。10月14日、第七師団は攻撃前進を開始して間もなく中国軍の部隊の抵抗を受けました。中国軍の陣地は巧妙に偽装されていたため、後に生存者は交戦しようとしても、敵がどこにいるかほとんど見えなかったと証言しています。また中国軍は単に阻止火力を発揮するだけでなく、防御陣地に進入したアメリカ軍の部隊に逆襲を仕掛ける予備隊を拘置していました。この予備隊はさらに後方にいる砲兵とも連携し、強力な火力支援の下で逆襲を加えてきました。

第七師団は前進目標の一つである598高地を目指す過程で多くの犠牲を出しました。地図の上では直線距離で500メートルにすぎない距離にある高地ですが、平均傾斜が30度もあり、地質も脆く、砲撃から身を守ることができるような植生や地物がほとんどありませんでした。第七師団のある大隊が598高地の頂上に到達すると、反対の斜面に身を潜めていた中国兵から激しい射撃を受けています。このため、大隊長は作戦が開始されてから6時間しか経過していないにもかかわらず、予備隊を戦闘に投入することを余儀なくされました。

中国軍の火砲と部隊の連携、そして防御戦闘の巧みさはアメリカ軍の予測を超えていました。作戦はその後も続けられましたが、アメリカ軍は事前の予測をはるかに上回る損害を出し、失敗に終わっています。この戦例で印象的なのは、戦場で中国軍の部隊が驚くべき速さでアメリカ軍の戦い方を学び、それに適応したことです。1951年までの中国軍はアメリカ軍の陣地戦に苦戦を強いられていましたが、1952年の秋にはアメリカ軍に勝利を収めており、一年にも満たない間にドクトリンの改革を成し遂げたことになります。

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