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歴史を学ぶ

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歴史に関する記事をこちらにまとめています。
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#戦略

なぜ大国の脅しが失敗するのか?: Coercion, Survival, and War(2015)の紹介

国力に優れた大国は、自国の要求を他国に押し付けやすくなるというイメージがありますが、実際…

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複数国が参加する連合作戦は外交交渉と不可分の関係にある:1943年のカサブランカ会談…

1943年1月14日、フランス領モロッコで開催されたカサブランカ会談は、第二次世界大戦で同盟関…

論文紹介 なぜウクライナは1994年に核兵器放棄を決断したのか?

1991年にソビエトが解体され、ウクライナが国家として独立したとき、その領土にはソビエト軍が…

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なぜ戦間期の英国はドイツとの対立を避け、宥和に動いたのか? The Ultimate Enemy(19…

1933年にアドルフ・ヒトラーが新政権を発足させてから、ドイツは将来の戦争を見据え、軍備を積…

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論文紹介 イラクが核開発を進めようとした狙いは何だったのか?

1979年3月27日、イラクの副大統領でありながら、すでに事実上の最高指導者として権力を掌握し…

軍事と外交を統合する戦略を探求したジョージの強制外交理論 The Limits of Coercive …

強制外交(coercive diplomacy)は、すでに何らかの望ましくない行動を開始している相手に対し…

メモ なぜ中国はベトナム戦争に介入したのか?

1965年、中国は北ベトナムに戦闘支援部隊を派遣することを決定しました。当時、北ベトナムはソ連からも支援を受けていましたが、中国は北ベトナムと領域が隣接していたこともあり、より直接的な支援が可能な位置にありました。中国から軍事的支援があったことは、北ベトナムがアメリカ軍の爆撃に抵抗を続けることができた重要な要因でした。 Xiaobing Liが2020年に発表した『ジャングルの中の龍(The Dragon in the Jungle)』はベトナム戦争における中国軍の戦略構想

第一次世界大戦におけるフランス軍の戦略と作戦を分析したPyrrhic Victory(2008)の紹…

第一次世界大戦(1914~1918)でフランスは西部戦線の作戦で中心的な役割を果たしました。フラ…

冷戦期の米国はどのように対外援助を利用していたか?Foreign Aid as Foreign Policy(…

国際政治では、対外政策の手段として軍事力だけでなく、経済力が使用されてきました。貿易や投…

論文紹介 戦争のエスカレーションから抜け出せない指導者の心理を読み解く

研究者は戦争に関する意思決定過程を考えるとき、その戦争を即座に中断したとしても取り戻せな…

論文紹介 朝鮮戦争とベトナム戦争で米軍が消耗戦を選んだ理由は何か?

消耗戦(attrition warfare)が望ましくないもの、非合理なものと見なされることが多い主な理…

論文紹介 80年代の日本で提案された北方前方防衛態勢はどのような戦略構想だったのか…

1979年12月、ソビエトはアフガニスタンに侵攻し、これを軍事占領したことによって、対米関係を…

論文紹介 1980年代の中東情勢と米軍の対ソ戦略に対するウォルツの考察

1979年9月1日、アメリカ上院外交委員会では中東地域に配備する新しい部隊として即応展開部隊(…

クリミア戦争でロシア軍がセヴァストポリの陥落直前に試みた反撃の悲惨さ

クリミア戦争(1853~1856)で激戦が繰り広げられた戦場の一つにクリミア半島のセヴァストポリがあります。セヴァストポリは黒海に面する港湾都市であり、ロシア海軍の基地でもありました。1854年10月から1855年9月にかけて、この要塞都市に立て籠ったロシア軍の部隊に対し、イギリス軍、フランス軍、トルコ軍、サルデーニャ軍で編成された連合軍の部隊が攻囲を行いました(セヴァストポリ攻囲戦)。およそ1年にわたる激戦の末に、セヴァストポリは陥落しましたが、その直前にロシア軍は多大な犠