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まぁとりあえずやってみっか



火垂るの墓を観ておはじきを舐めてみたことがあるのは、きっとわたしだけじゃないはずだ。

いつ味が変わるんだろうとドキドキしながら口に入れっぱなしにしたおはじきは、ついぞ味なんかしなかったけれど。

『すべて経験』というのが父の口癖だった。
幼い頃のわたしはこれを都合よく解釈して、外に生えてる美味しそうな葉っぱを選んで食べ歩いたり、近所の電気柵を触りに行ったり、靴をわざと左右逆に履いて出掛けたりしては、誰に自慢するわけでもなくこそこそと自分なりの経験を積んでいた。

天才肌でもなければ、特段ユニークな子どもだったわけでもない。
色々やってみたところで「あぁキャベツは一番美味しい葉っぱだな」とか「靴を逆に履くと変なところに靴擦れができて損したな」とかそんな感想しか得られなかったので、単に頭があまりよくなかったのだと思う。


それでもわたしの人生においては、不要な経験なんてひとつもなかったと大きな声で言い切れる。今までもそうだし、これからもきっとそうだ。

やってみたことはもちろんやらなかったこともまた経験なのだけれど、限られた時間の中でなにを経験したかというのが唯一無二の自分をつくっていくのなら、触れるものはどんどこ触っていけばよい。
もちろん31歳にもなってその辺の葉っぱを食べ歩くべきとかいう話ではない。やったほうがいい経験はそれ以外に無数にある。

それなのに、日ごと腰が重たくなってゆくこの現象は一体なんなのだろうか。
結局、大人になるにつれて想像できてしまうことが増えたということなのだけれど、今までの経験が "それやっても意味ないよ" と制してくる。『その箱開けたら大変だよ?責任も伴うよ?頑張らなきゃだめだよ?なにも起こさなくていいんじゃない?』といったように。

そういうのを全部取っ払って「いいからやるぞ!」って誰かに言ってほしいと思ってしまう他力本願なわたしだ。そして誰かが言ってくれるときはいいけれど、誰も言ってくれないときは自身で言い聞かせていくしかない。
だから常に『まぁとりあえずやってみっか』の心持ちでいたいのだ。


後先考えずにやるなんて到底できない。過去のたくさんの経験から、これをしたらどうなるかといった想像の精度は日ごと高くなってゆく。

だけれど、実際触れてみれば想定外のことだって当たり前に起こり得るのだ。そもそも万事計画通りにいく人生なんておもしろいだろうか。計画通りにいかないことを探し食べ歩いていくことってきっと物凄く大切だと思う。


わたしの人生において不要な経験はひとつもなかった。自信を持つのはこの事実だけで十分である。
人生を思い通りに運ぼうなんて500年早い。まだまだ未知の雑草を食べ歩いて生きていける歳だ。




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