人生とは何か? 人間とは何か?

今の自分はどこにいるのか、考えながら、進んでいく。

すべてを楽しんでいる。世界の見え方が変わり、自分自身の気持ちが変わり、自分の見た目が変わったとしても、自分は自分であり、考える前に言葉がでてきて、誰かに導かれるように、歩いていたとしても、結果、その行先は、私自身が行きたい場所であり、私が時間をかけて、行動していることである。

人生とは?


とても小さな声で言う。

「人生とは、何か?」


生物学と社会学の面からアプローチする。

まずは様々な生物と共におなじ時間と空間を過ごすこと。そして、自らの頭で考えて、自らの心で判断し、自らの体で行動することにより、自分のいる空間と時間に新しい世界を創ること。さらに、その世界を他の生物と共に有し、共に生きること。

私たちは存在する

生物には、ウィルスと細菌のように、単体で存在するものと、宿主が必要なものとある。どちらが優れているとかいうことではなく、それぞれの生物としての特性である。そして人間はそういう細菌やウィルスと共存している。

彼らに意思があるとして、彼らは何なのか?

人間のように、社会的な考え方のウィルスもいるかもしれないし、遺伝子情報だけが発達した細菌がいるかもしれない。これは抽象的な概念かもしれない。目に見えないものを信じること

ウィルスも最近も目に見えない。つまり、目に見えない存在を私たちは信じている。

空気も目に見えない。触ることもできない。しかし、空気があるから、私たちは生きている。「つまり、見えない、触れない。だから、存在しない」とは言えない。


「見えなくても、触れなくても、そこに空気のように存在する存在」は、人間の体内にもいる。


自分とは何か?

自分をどう構成するか? どうイメージするか? そういうテクニックについては、先人が書いた優れたものを読めばよいと思う。今、この時代に考えたいことは、「なぜ、人には『社会』が必要になったのか?」である。今から、すべてを破壊して、原始に戻るということもある意味おもしろいかもしれないが、多くの人類は、それを望まないだろう。

「外的要因による死」から解放されつつある人類は、永遠の魂を選ぶ価値観の人もいるだろうし、限られた瞬間の燃焼に価値を見出す人もいる。

私は、永遠ではなく、この瞬間の命の燃焼が一番楽しいと感じる。

もちろん、その楽しい瞬間が永遠に続くことが一部の理想なのかもしれない。気持ちはわからなくもない。しかし人類は生物としての存在もあり、自分たちが創った「社会」の中での存在がある。そのことを明確に意識して、生きていく必要がある。そして、それは、いつでも、自らの選択でふさわしくない社会から自ら脱出し、新しい社会へ移動できることを意味している

 なお、このような集団による社会を創るよりも、はるかに少ない人数でできることが、「新しい世界」を創ることである。「社会」を変えるときは、自らの影響下にあるところで、まず「新しい世界」を創り、そして、それを社会の構成条件までに拡大することで、「新しい社会」の構築は実現可能である。

たったひとりが世界を変える方法

戦争を起こすのも、戦争をやめるのも、おなじ人間。
たったひとりで世界は変えられる。
しかし、社会で生きていく人にとっては、世界だけでなく、社会を変える必要があるのだろう。そのためには、たったひとりで「社会」を変えることはできない。なぜなら、「社会」とは、集団である。社会を変えるには、集団そのものの価値観を変える必要がある。

誰かの利益が誰かの不利益でない社会

誰かの利益がほかの誰かの利益であることが理想である。そんな社会ならば、人間として、存在してみたい。おなじ空間に存在する集団構成員が多くなり、共有する領域が広がるなかで、統治が必要になり、法のもとの平等という知恵を使うのだが、果たして、何がどこまで平等になっているのか? これからは、不平不満ではなく、未来への実証実験をしていこう。

「生物学的な死」を人類から遠ざけることが
「人類」にとっての幸せなのか?

私は「個人の幸福追求」が生きる目的でも意味でもないと思っている。「幸福」とは「価値」のひとつであり、「価値」とは社会性を伴うものである。つまり所属する集団の属性により、その「価値」は異なる。そのため、人類共通の「幸福」なる「価値」を創るためには、全人類がおなじ集団に属する必要がある。つまり、それは「地球人」または「地球上の生物」としておなじ属性になる必要がある。そうすれば、何を所有し、どんな生活をしているか、など気にならない。しかしこれまでにそのような体験を人類はしたことがない。おそらく有史になってからはないだろう。

そこで、私は社会性を排して、「地球上の生物」として存在してみることにした。そのうえで、日本に住み、2022年を生きる価値を自らに装備しているのである。だからこそ、いわゆる「常識」と言われる価値観については、私は、一切気にならないのである。もちろん、社会的存在として、生存し、活動しているため、「常識」と言われる価値観は宇宙人のそれのように学び適応していく。

魂とはそんなもの

 人間とは「心身魂」が三位一体となり、生存する。そして、関わる経験や人やモノや土地の中で変化し、成長し、イメージしているものになっていくのである。これは人間が平等にもっているチカラである。
 優秀なスポーツ選手や大企業の社長はこのチカラが強い。やっていることはイメージを具現化するためのことである。これは自己実現の方法論で多く書かれているので、それを参照されるとよいと思う。
 私が独自の視点でお伝えしたいことは、自分自身と何か? 人間とは何か? 魂とは何か? それの問いに意味はない、ということである。人間とは変化するものであり、状況により苦しみ、状況により喜ぶのである。今風に言うと、そういう設定となっているだけである。しかし厳然たる事実もある。人は生まれ、成長し、老化し、死ぬ。これは事実である。魂だけ残されたものに入り、生き続けることもできるが、受容されればの話であるが、それも成仏ができぬことになる。仏法や信心のことは宗教家に任せて、私はもっと「ファンシーな現実」という名目で、状況に縛られて苦しむ人間がいたら、そんなものは一切の幻想だとお伝えしていきたい。

日本が嫌なら、海外へ行こう! 

同質化を求める日本の教育や歴史観について、国として統一した見解もない。これは戦後教育の弊害である。本来は歴史、宗教、倫理を国として統一し、民族としてまとまることが多様な人間を集団に構成させることができる方法であると考える。

正解探しの行動をやめて、新しい事実を創ろう!

これからの若い世代は、過去の偉人や先輩たちの創った世界の上に新しい世界を創っていくのである。これは土台のないところには何もできないし、土台作りからしていたら、相当時間もかかる。だから土台があるところに、ちょこっと創っている。だから簡単にできるのである。先人がいるからである。そのことを忘れてしまうたびに、人間はすべてを流されてきた。災害が起きる必然について、考えたことがあるだろうか?

すべては繋がり、すべては因果がある。

もしもこのテキストを読んでいる人間がいるならば、書かれていることを真摯に受け止めてほしい。これらは秘匿性が高く、あまり表にでてこない言葉である。人間や自然、また宇宙、人知を超えたものに対しての神聖を失った場合に人間がどのように変化するか、厳しい表現を使うと変態するか、ということを身をもって知る必要はないと考えている。そういうことは起きることを私は見てきている。そして、変態したものも、浄化や場所を変えることで、生きやすいカタチ(あえて正常とは言わない)に変化していくのである。このテキストを読んでいるキミたちは、おそらく言葉の意味がわかると思うし、自らを実験台にすることなく、「日常」と呼ばれる「社会」を生きてほしい。それでももし、この「日常」を変革し、ムーンショット計画のように人類の高みをめざすならば、すぐに捨てる古くさい「価値観」がある。それは「資本主義」である。神の見えざる手とは何か? 経済学ではなく、本当の意味でそれはなんなのか? 意味もわからず、資本主義の中に私達はどっぷりと浸かっている。共産主義を推奨しているわけではない。王政や帝政から共和制となり、民主主義となる中で、チカラを持った者たちが創った社会が資本主義なのである。日本は西洋化する中で、その社会方式を取り入れていった。もっと根源的なことを考えてほしい。

これから考えるべきこととは?

 まず自分が帰属する「社会」を知ることである。どんなにファンシーな現実を生きていたとしても、「社会」の中に生きているのであれば、「義務」もある。もちろん「権利」もある。そして、日本の建て前は、法のもとに平等である。何を考えるか? それがキミたちの将来を創る。
他人の人生など考える前に、自分自身が暮らしたい社会をどのようにするか、そのために自分が何をできるか、ひとりひとりが考えていく。

 そのイメージの先に、豊かな国ができる。豊かな人間ができる。キミたち自身がこれから考えることがキミたちの未来を創る。そして、日本や世界を創っていく。

もっとわかりやすく

SDGsも、脱炭素も誰かが決めたのである。誰が決めたのか? 陰謀論ではなく、何が動いているから石油から自然エネルギーになるのか? このレベルのことは流行りの本を読めばいくらでも書いてある。ぜひ読んでほしい。
何一つ、実は決めていないし、何一つ創っていない。
それをまず実感したあとに、誰がこの社会を築いたのか、そして、この社会を引き継ぐのか、どのように変化させるのか? それがこれからの人間が社会と向き合うときに必要になるチカラになるのである。

なれあいは何も生まない

現代は、極度に承認欲求が強くなっている。
まず産業というものは「欲望」を糧に成長する。
この承認欲求を満たしている産業が伸びている。
「他人より優れている」
「他人に褒められる」
そこに価値を求めている社会が現代である。そして、他人より努力した結果、そのような成果がついてくる。そう信じられている。ひとつひとつの知識を見極めていくことで、どの思考か、ということは明確に見えてくるのである。人間という存在について、どのようなスタンスをとるか、それにより人生へのとりくみ方が変わる。社会への見方が変わる。属性を持つ者たちへの考え方が変わる。自分自身の存在を問い直し、見直し、捉えなおすことが必要である。

もうひとつお伝えしておこう

せっかくなので、もうひとつお伝えしておく。
ここからは私個人的な見解である。
「ファンシーな現実」に正面からとりくむ人々への賛辞を送りながら、
すべての現実というものはファンシーである。
そして「人間」という存在はなんであるのか?
神や仏ではなく、自然の一部であるというアメニズムでもなく、
そして、人間とは何であるか?
ぜひ自分自身に問い続けてほしい。

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