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ビジネス書として読む『ぼくらは嘘でつながっている。』(著:浅生鴨)

 この本を読み始めて思い出したのは、「自分は、正しいことをしているのか?」という仕事中に感じる違和感だった。
 それは、疲労感と、すこしの罪悪感を伴う感覚だ。

 例えば、最近、新規事業の企画書を書くことが多い。その中で、「すべてが確実に正しい」と断言しづらい報告書を作ることが多い。
 まず、経験のない事業だから、分からないことが多い。もちろん、出来る限りのことは調べる。インターネット上の公式情報を集め、投資家向けのレポートを分析し、業界有識者を探し出してから話を聞く。揃えた情報から、「おそらくこう言えるだろう」というエッセンスをまとめ上げる。だが、自分が身をもって体験している分野ではない。推論が必然的に混じる。
 そして、その情報を経営層向けに練り上げていく。聞き手は、その事業について全く勘所がない。となると、理解してもらうためには、ビジネス上の共通言語に抽象化した「分かりやすい」ストーリーに落としこむ必要がある。その過程の中で、嘘をつくつもりはないが、「やや分かりやすくするために言い過ぎていないか?」「試算としては正しいけど、前提甘くない?」等、様々な疑念が出てくる。

 時々、資料をつきながらため息をつくことがある。
 チームで作った戦略や、企業の発展を目指す気持ちに嘘はない。そのために、出来る限りの良いものを作ろうと努力を尽くしている。でも、精魂を込めて作ったはずの報告書に感じる、ある種の「気持ち悪さ」はなんだろう?

 『ぼくらは嘘でつながっている。』(著:浅生鴨)を読んで、上記の「気持ち悪さ」が何なのかを自分なりに把握し、よりクリアに言語化出来たような気がしている。

 簡単に言えば、帯にあるように「僕は噓つきだ」ということだ。

* * *

 この本はタイトル書かれている通り「嘘」について書かれた本だ。
 ただ、この本が対象にする「嘘」は一般的に考えられるよりもかなり広い。
 まずは、「嘘」の辞書の定義である「真実・事実ではないこと、本当ではないこと」から著者の浅生さんは議論を始める。そして、この「事実」を人がどう捉えるのか、という所から疑い出す。人は記憶を改竄する。複雑な事実の一部だけを捉える。さらにその「事実」という名の記憶を、圧縮して言葉に変えていく。このプロセスの中で、純粋な「事実」からことばは段々と離れていく。
 更に浅生さんは、「嘘」の具体例を見せてくれる。そこには詐欺などのイメージしやすい嘘以外にも、様々な種類のコミュニケーションが含まれている。デマの拡張、根拠のない応援のことば、上司へのお世辞、面白くするために誇張されたすべらない話、娯楽作品などのフィクション。
 確かにどれも「本当ではない」という意味で、「嘘」だ。だが、私は、ここまで広く嘘を捉えたことはなかった。
 そして、この視点で見る限り、ほとんどすべてのコミュニケーションは「嘘」性をはらむ。

 だが、「嘘」をはらむことで、麻生さんはコミュニケーションを否定するわけであない。むしろ、「嘘」は人間関係において必要不可欠なものだと語る。

 例えば、嘘の1つの機能は、より伝えるメッセージを端的に、明確に伝えられることだと語っている。

 嘘のいいところはものごとを単純にできることです。逆に言えば単純でなければ人は嘘を理解してくれません。そして単純だからこそ、そこには真実が存在しやすくなるのです
 人は誰もが、この世界を自分なりの嘘にして把握します。現実世界には無限に事実がありますから、僕の解釈と他の人の解釈が一致することはほとんどありません。
 けれども、事実の数を絞ってやれば、多くの人が同じように解釈をして、おなじように世界を認識します。お互いが同じ世界を見るために事実を絞って単純にすること。これがフィクションという嘘なのです

 ここまで読んで、冒頭の自分の悩みが言語化された気がした。
 冒頭で新規事業の企画書に感じていたある種の気持ち悪さは、「嘘」が含まれていることを自分が無意識的に感じていたからだと思う。新規事業の企画書は情報の不足と抽象化から、普段のコミュニケーションよりさらに「嘘」性が高い。
 だが、それはただ悪いことではない。複雑な事象を列挙しても、物事が相手に理解されることはない。事実から読み取った自分なりの結論、ここで言う「真実」を伝えるためには必要な作業だろう。

 だが、「嘘」はただ肯定されるものではない。危険性も孕む。

 僕たちは、おなじように世界を見る者たち、同じ嘘を信じる者たちと一緒にいると安心できる。そこでは、周りにいる者はみんな同じように世界を見ているから、やがて自分たちの見方が正しいもの、絶対的なものだと考え始めるのだ。そうやって、あまりにも自分たちの嘘を強く信じてしまうと、最終的には自分たち以外の嘘は認められなくなってしまう。
 信じたい嘘は希望になるが、信じすぎるとその希望は新たな苦難を呼び込んでしまう。
それが嘘の良さでもあり、恐ろしさでもあるのだ。

 人は、原則的には、相手の言葉を信じる傾向を持っている。それが集団の中で「正しい」と認められれば、組織自体がその方向に進んでしまう。
 
 では、どうすべきなのか。
 個人的にこの本の中でヒントになると感じたのは下記の文章だった。

 嘘との旨い付き合い方ってものは、おそらくいくつもあるんでしょうけれども、僕がお薦めする方法の一つは、自分の話すことも相手の話すことも、すべてどこかに嘘があると思っておくことであります。

 すべての言葉に、元々嘘が混ざっている。
 そう考えると、誰かのことばを聞いた時、それを疑い、検証して、その「嘘」がどのようなものなのかを把握するのは、むしろ自然な行為だと感じられる。

 そう捉えると、仕事の普段のコミュニケーションの意味も違って見える。
 例えば、報告を行った時に、上司や先輩から様々な質問が来る。答えるのがキツく感じる質問もあるかもしれないし、その場に立つこと自体から避けたくなるかもしれない。
 でも、その自分の報告が元々「嘘」も混じっていると思うと、どうだろう。すべてが疑いの余地がない「事実」ではありえない。だとすれば、質疑は、その嘘を測って貰うための適切なプロセスかもしれない。

 「No Measure, No Improve」という言葉がある。自分が意識してきて計測した物しか、人は改善することができない。昔一緒に働いた米国人の言った言葉だ。個人的には、かなり真実に近い言葉だと実感している。

 この本を読んで、自分のことばの「嘘」性というものを認識できるようになった気がする。そして、認識できたならば、おそらく、それについて考えて、コントロールしようとすることも試みられると思う(完全には不可能だろうが)。

 例えば、自分の報告書をまとめ上げた時、それを読み返してじっくり「嘘」について考えてみると良いかもしれない。どの部分は事実に近いと言えて、どの部分は嘘の比率が高いのか。そして、それは何を目的とした、どんな嘘なのか。なにより、その嘘は本当について良い嘘なのか?

 ビジネスの局面では、短期的には「論理性」が求められ、評価される場面が多い。でも、この「嘘」について敏感なことは、同じか、それ以上に重要なのではないかと感じている。「嘘」の方が危険度が高くなりえるし、自覚しづらい。ある種の「倫理性」が必要なような気さえしている。

 帯に書かれているようにあなたも嘘つきで、私も嘘つきだ。まずは、そこから始めるべきなのだと思う。
 無意識の嘘つきより、自覚的な嘘つきの方が、よほど誠実だろうから。

 


* * *

 最後に、やや余計な補足として。
 上記を読むと、なんだかすごくかしこまったビジネス本のように紹介してしまったけれども、そういう本ではない。終始セルフツッコミを入れてたり、真面目に読んでたら作り話が混ざったり(ちゃんと後で作り話だとネタバレしてくれます)、「もしもこの世に嘘が帰れば」という設定の男女のブラックな短編小説が始まったり、笑って最後まで読み切れる本だ。短編小説のツッコミが、とにかくおもしろい。
 そして、最後は「なぜ人はフィクションを求めるのか?」「嘘は、人間関係にどう役立つのか?」という所に着地していく。そこで描かれた孤独の先に人が繋がっていく世界の美しさに、心打たれる部分もある。

 でも、自分にとっては、個人的ながら、冒頭に書いた経験についての理解が深まったことが、とても大きかった。だから、それを書いた。

 「おわりに」で、著者はこんなことを書いている。

 たとえ僕がどれほど本当のことを書こうとも、それは単に僕にとっての現実、真実でしかなく、みなさんにとっての真実ではない。大切なことは、僕の書くこの文章をみなさんが受け取ったときに、みなさんそれぞれの中にある自分だけの世界、じぶんだけの物語、その嘘に、この文章が上手くフィットするかしないか、それだけなのだ。

 自分にフィットしたのは、冒頭の仕事の悩みだった。だから、こういう文章になった。そして、それぞれの人が、無自覚の「嘘つき」であるならば、この本が読者に響く部分は、かなり幅広い物になりえるのではないかと思う。
 その意味では、様々な人にどう読んだのかを聞いてみたい本でもあった。





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