大好評のご当地怪談シリーズ、初の東海地方・静岡編! 『静岡怪談』(神薫)著者コメント+試し読み
静岡在住の女医が県内の怪異を取材蒐集!
あらすじ・内容
ねばねばの白い糸がまとわりついてくる旧静岡陸軍墓地公園
竜爪街道のバス停ごとに現れる奇妙な赤白ボーダー男
カーナビが誘う小夜の中山峠の夜泣き石
…ほか最恐実話怪談収録!
日本の中部地方に位置し、伊豆、駿河、遠江の三国に相当する広大な広さを持つ静岡県。
富士山を有するこの土地には心霊スポットも数多く存在し、さらにもっと身近な怪異にも事欠かない。
静岡在住の〈怪談女医〉神薫が、そんな静岡における怪談を蒐集取材した渾身の一冊!
カーナビが勝手に案内を始めるその行先は…「夜泣き石に呼ばれる」、
日暮れにバイクで通った竜爪街道で見かけた奇妙な男「赤白男と白黒女」、
肝試しに行った三人がそれぞれに見たものは…「怪異のデパート大内山~霊山寺」、
富士山の見える家に越した一家に起こった壮絶な恐怖「穴」など静岡の怪異29篇を収録。
著者コメント
試し読み1話
化生 (伊東市)
海沿いの家に一人暮らしの雅代さんは、背筋のピンと伸びた良い姿勢で矍鑠としておられるので、とても御年九十歳には見えない。
彼女がまだ二十代で、この家に夫婦二人で暮らしていたころのことだ。
その日、彼女は夕餉の支度をしながら夫の帰りを待っていた。
夜遅くになって「帰ったぞ」という外からの声を聞いた彼女が、鍵代わりのつっかい棒を外して引き戸を開けると、疲れを顔に滲ませた夫がうっそりと立っていた。
彼女が手早く食卓に並べた献立は、鶏肉の鍋とご飯、漬物と一杯のビール。
「旨い旨い」と夫は満足げな笑みを浮かべて白米を握り箸で掻き込んでいく。あまりの勢いに、食卓に米粒がびちゃびちゃと飛び散った。
いつもはもう少しお行儀が良いのに、よほどこの日は仕事がきつかったのだろうと思いつつ、雅代さんは自分の飯をよそっていた。
そこに、ドンドンと引き戸を叩く者がある。
こんな夜中に家を訪う者は稀だった。雅代さんが「誰だい?」と訊くと「俺」と答える。その声に驚いた彼女がつっかい棒を外して扉を開けると、うっそりと男が立っていた。疲れを滲ませた顔で立っていたのは、彼女の夫だった。
彼女は食卓に着いている男と、玄関で靴を脱いでいる男を交互に見比べた。
先に帰って来た夫と、たった今帰って来た夫は同じ顔、同じ服を着て寸分たがわぬ姿である。
そんな馬鹿な。おろおろと戸惑う彼女に、後から帰って来た夫が一言、「飯」と言うので、彼女は慌ててよそったご飯を夫に差し出した。後から来た夫と先に帰って来た夫は、立ち尽くす彼女の前で並んで黙々と飯を食っていた。
握り箸、茶碗から飯を掻き込む様子、野菜を嫌って肉ばかり選ぶところや、冷ましてから鍋つゆを啜る猫舌ぶりまで、二人の夫は双子のように似ていた。
彼女は「ちょっと失敬」と、食事中の夫どもの首筋に鼻を付けてすんすんと匂ってみた。どちらからも同じ匂い、日ごろ嗅ぎなれた中年男の体臭がする。
「参ったなあ、これじゃあ私には区別がつかんわ。全然わからん」
彼女がこぼすと、二人の男はぼんやりと顔を見合わせた。
「まあ、ヤッたらさすがにわかるんだろうなあ」
彼女が下品な物言いをすると、片方の男が小さな声で「はしたない」と呟いた。その男の表情には女性からあけすけな物言いが出たことに対しての驚愕と、ほんの少しの軽蔑が混ざっているように見えた。もう一人の男は、彼女の言葉に大した反応を見せず、能面のような顔でコップに注いだビールを舐めていた。
「そのとき、私にはなんとなくどっちが偽者かわかったのさ」
彼女が夫婦用の布団と来客用の布団を並べて敷くと、寝間着に着替えた夫たちはそれぞれ、二つの布団の端に横になった(そのころ雅代さん宅では、風呂は週に二度くらい入る習慣で、その日は入浴予定ではなかった)。
どちらの夫とも寄り添って眠る気にはならなかった雅代さんは、皿を洗ってから懐に鉈を隠し、くっ付けられた敷布団の真ん中に横たわって寝たふりをした。
そのうち、一人の男がいびきをかき始めると、もう一人の男がのそりと布団から立ち
上がった。彼女の夫は身長が百七十センチほどであったが、立ち上がった男は子どもの如く、百四十五センチの彼女よりも身長が低くなっていた。
カーテンのような洒落た物のない窓から漏れる月明かりにより、彼女は小さな男の一挙手一投足を凝視していた。
彼女は物音を立てぬよう、そうっと小さな男の後を追って起き上がった。
男がやけに小さな足で土間に降り立ったとき、彼女は手にした鉈を思い切り男の肩に振り下ろした。
「ぐわっ」と肩を押さえ、よろめきつつも男は玄関へ小走りに駆けて行く。逃すものかと追う彼女。引き戸を開けて外に男の半身が出たところで、二回、三回と頭頚部を狙って鉈を叩きつけると男はおとなしくなった。
満月の下、男の胴に馬乗りになって見れば、その顔はもはや夫とは似ても似つかぬ中年男の顔になっていた。深手を負った男は息も絶え絶えに命乞いをした。
「助けてくれたら、お前の家に幸運をやる!」
化生が言うのだから、本当かもしれない。彼女は一瞬逡巡したが、そもそも夫の振りをして彼女を騙した者が、口約束を守るとは限らないと思い直した。
それに、人を幸運にするほどの神通力を持つ者を切りつけておいて逃がしたら、どんな報復を受けるかわからない。
やるしかないと決意した彼女は、夫の偽者だった物をさんざん鉈で殴りつけた。人ではない物をどうやって殺せばいいのかわからず、闇雲に刻んでいると、それは次第に人の形が解けて灰色の毛の生えた肉の塊となった。
彼女は偽者の残骸をまとめると庭の端にある絶壁から海へ落として始末した。その間、本物の夫はぐっすり大いびきであった。
朝起きてから、夫が彼女に偽者の行く末を問うこともなかったという。
自分そっくりな人が家に居れば、どちらが本物かと問い質したり、もっと騒ぎになるのが普通なのではなかろうか。
「旦那は心の広い人だったから、そんな小さいことは全然気にしないのよ」
多分逃げ出そうとしたのであろう化生、偽物だと判別出来たのは何故?
「あの人はとにかく無口な人だったから、八十で死ぬまで『飯』『風呂』ぐらいしか言わんかったくらい。だから、わかったの」
どうやら口数の多い方が偽者だったようだ。
ちなみに、夫が寝間着に着替えるときに脱いだ作業着は残っていたが、偽者が脱いだ服は木の葉などに変わることもなく、家の中から消え失せていたという。
踵がなく獣のようであったこと、肉片となった死体に大量の灰色の毛が生えていたことから、彼女が殺したのが「人」である可能性は否定できるだろう。
七十年前は、戦後五年の昭和である。電気も通った近代的な生活の中、「獣が人を化かす」ということが、その時代はしばしばあったのだろうか。
「いやいやいや、あるわけないよ。そんな体験、私も長い人生でこの一度だけよ。フッフッフ」
それにしては対処が手馴れすぎているような気もするが、そこは聞かぬが花だろう。
偽者が夫の体臭までもそっくりに化けていたことに、雅代さんは感心していた。
しかし、顔や体臭が似ていると感じるのは人の心である。もしかしたら偽者が実際に変身していたわけではなく、似ていなくとも「そっくりだ」と雅代さんに思わせるよう、彼女の脳に影響を与えて視覚嗅覚を眩ませていたのかもしれない。
―了―
朗読動画
2/26 20時公開予定
著者プロフィール
神 薫 (じん・かおる)
静岡県在住の現役の眼科医。『怪談女医 閉鎖病棟奇譚』で単著デビュー。ほか『怨念怪談 葬難』『骸拾い』など。共著に「怪談四十九夜」「瞬殺怪談」各シリーズ、『現代怪談 地獄めぐり 業火』など。
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