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●オリムピックこぼれ話●~その肆~

★1964年10月17日の朝日新聞…フルシチョフ・ソ連首相辞任
1964年の東京オリンピック期間中に、ソ連のトップであるフルシチョフの辞任が伝えられた。
スターリンの死去後、ソ連の実権を握り、1956年の党大会におけるいわゆる「スターリン批判(正式には、秘密報告「個人崇拝とその結果について」と呼ばれる)」によって、それまでの冷戦構造の対立路線を変更し、「平和共存」を打ち出した。しかし、それが他の社会主義・共産主義勢力に動揺を与え、反発も生まれた。

フルシチョフのスターリン批判の主な内容は以下のようなものとされている。
「個人崇拝はマルクス、レーニンによって戒められていたにもかかわらず、レーニンの死後、党と国家の指導者となったスターリンは、自らを対象とした個人崇拝を許すどころか奨励し、党生活や社会主義建設に重大な障害をもたらした。」
「スターリンの弾圧はソ連社会の各方面で活躍する活動家、さらにおびただしい数の無辜の市民に及んだ。彼らに科せられた「トロツキスト」「人民の敵」その他の罪状は、これまたでっちあげであった。」
「スターリンの専横ぶりは、第二次世界大戦後のソ連と社会主義兄弟国との関係にも悪影響を及ぼした。その最も際立った重大な例はチトー率いるユーゴスラビアとの関係悪化で、当時両国間に生じた問題は、同志間の話し合いで解決できなかったものは何一つなかったのに、「俺が小指一本動かせばチトーは消えてなくなる」と言い放ったスターリンの傲慢な態度が原因で両国関係は決裂し、ユーゴを敵対陣営に追いやってしまった。」

ソ連の平和共存の路線変更によって、東欧諸国では共産党支配を脱する運動が起こることになる。代表的なものは、ポーランドで起こったポズナニ(ポズナン)事件や、ハンガリーで起こったハンガリー動乱(ハンガリー事件)である。ハンガリー動乱では、ソ連が軍事介入し鎮圧されている。

平和共存とはいっても、世界の覇権をアメリカと争う姿勢は変わらず、1962年にはキューバ危機が起こるが、最終的にはアメリカのケネディ大統領と、ソ連のフルシチョフ首相との間で書簡が交わされ、戦争は回避されたのである。

このようなソ連の対応は、1950年代後半から革命思想の違いが顕在的なものとなっていた中国との関係にも影響を与えることになり、1963年7月のソ中両党会談の決裂が「中ソ論争」を本格化させた。特に1963年8月、米英ソで調印した部分的核実験禁止条約(PTBT)に対する中国の反発は大きく、中国は独自の核兵器開発を加速化させていったのである。

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★1964年10月17日の朝日新聞…韓国に不満の声、五輪テレビ、日本選手一辺倒だ
オリンピック憲章では、次のような規定がある。
▶ 9.オリンピック競技大会
▶ 1- オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での競技者間の競争であり、国家間の競争ではない。オリンピック競技大会は、このような目的のために個々のNOCによって指名され、IOCがその参加を認めた選手たちが一堂に会し、当該IF(国際競技連盟)の技術的指導のもとに競技をおこなう大会である。

オリンピックの報道を見ていると、国ごとのメダル獲得数が表で示されることがあり、この大会が国ごとの争いのように誤解されてしまうことがある。ただオリンピック憲章は、大会は競技者間での競争であって、国家間の競争でないことを明確にうたっている。

だが実際には各国のナショナリズムが噴出している場面が多くみられ、そのため、その国においてメダルを獲得した選手が頻繁に取り上げられているように思える。オリンピック憲章が掲げる精神に基づくならば、各種目での競技者の頑張りを、最終的な「結果」重視で評価するような報道ではなく、大会にたどり着くまでにどれだけの努力を重ねたのかという「過程」重視で、その頑張りに敬意が示されることが大切ではないだろうか。

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★1964年10月17日の朝日新聞…南ローデシア、来月5日に独立投票
第二次世界大戦後、世界の大部分は米ソ両陣営に分かれて対立する冷戦構造の中に置かれたが、1950年代からどちらにも属さないことを表明する「第三世界」というグループとして、主にアジアやアフリカが存在感を増すことになる。

そして1955年4月、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)が開かれ、植民地主義反対、基本的人権・民族自決、核兵器禁止などを内容とする平和十原則が示された。

このような流れを受けて、世界では冷戦構造や植民地支配に対する反発の声が高まり、植民地アルジェリアの反発の大きさから、1959年9月にフランス大統領のド・ゴールはテレビとラジオで、民族自決に関する発表を行った。主な内容は、「アルジェリア人がその将来に対しそうしたいと望むところを、アルジェリア人自身に自由に選ばせるのだ」、「私は、民族自決にまかすことを、ここで、今、宣言することが必要と考える」というものであった。そしてフランスは植民地独立を認める姿勢を見せることになる。

その結果、1960年1月1日のカメルーンの独立を皮切りに、1960年の1年間でフランス領を中心として、最終的にアフリカでは17の独立国が誕生したのである。そのため、1960年は「アフリカの年」と呼ばれている。

この年の10月には国連総会で、ガーナのエンクルマ大統領が次のような演説を行い、植民地支配の終了を訴えかけた。
「我々の時代の一つの基本的事実は、アフリカの覚醒が現代世界にもたらす重大な影響である。アフリカのナショナリズムの潮流はあらゆるものを押し流し、この大陸に行なわれてきた長年の不正義や犯罪からの回復を植民地保有国に要求するものである。しかし、アフリカは復讐を求めない。悪意を抱く事はアフリカの本性に反している。200万人以上の人民は声を揃え、非常な力をもって叫ぶ。彼らは何と言うのだろうか?我々は抑圧者の死を求めないし、奴隷所有主の不運な末路も願わない。我々は正当で前向きな要求を主張する。その声は海に山に、丘に谷に、砂漠に、人類の住む広大な土地に響き渡り、アフリカの自由を求める。アフリカは自由を望んでいる。アフリカは自由でなければならない。これは単純な叫びだが、これを無視しがちな人たちに強い警告を与える信号でもある。」

そして、1960年12月14日に、「植民地と人民に独立を付与する宣言(Declaration on the Granting of Independence to Colonial Countries and Peoples、植民地独立付与宣言)」が採択されることになる。

このあと、世界の植民地は独立を勝ち取っていくことになるが、比較的穏便に独立を達成する地域もあれば、泥沼の紛争に発展する地域もあった。スライドに示した「南ローデシア」は東京オリンピック中に来月の独立投票が決まり、その流れで穏便に独立が達成されるかと思われたが、後に深刻な国際問題に発展してしまうのである。

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★昨日も述べたが、オリンピック期間中でも、総選挙があったり、核実験が行われたり、そして今日紹介した記事のように国のトップが辞任したりと、オリンピック期間中は世界各地がスポーツや平和に注目して穏やかであるということにはなっていないようである。現在もロシアとウクライナの緊張感は増している。

またオリンピック報道によって、ナショナリズムの先鋭化が助長され、対立が顕在的になってしまうこともあり、「スポーツが持っている大きな力」が誤った使われ方をしてしまうことは残念でならない。昨日の金曜ロードショーで放送されていた『クールランニング』のように、相互理解を深めて、他国・他者を讃える雰囲気が、オリンピックを起点として大きく広がっていくことを期待したい。

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