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❖無い物ねだりのメトロノームは散文と韻文を行き来する❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年12月20日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

◆無い物ねだりのメトロノームは散文と韻文を行き来する◆

古代より変わらず繰り返される動き。

2つの間を行ったり来たりするメトロノームの動き。

タレスは水、ピタゴラスは数、ヘラクレイトスは火、デモクリトスは原子というように個々人でこだわりの違いはあるものの、総じて万物の原理(アルケー)を何かしらに求めようとする「絶対」に向かう動きが進んだ(四元素の組み合わせを説いたエンペドクレスや、無限定なるものから始まると説いたアナクシマンドロスは、毛色が違うように見えるが、彼らも詰まるところ、何かしらの絶対的原理に向かうという点では同じと捉えておく)。

そんな「絶対」に向かっていたメトロノームがそのうち逆方向に振れることになる。プロタゴラスは「人間を万物の尺度」と考え、人間それぞれの認識はいずれも真だとして肯定すると同時に、万物を貫くような客観で絶対の真理を否定した。そうして「相対」への動きが始まった。この動きにゴルギアスも追随し、彼は「不可知論」に基づいて、人間それぞれが認識したものは他者には説明し得ないが、個々の主観では真であると考えた。そのうち彼らのようなソフィストたちがポリスで活躍し、彼らが振りかざす「相対」のエスカレートはポリスの秩序や倫理観さえも破壊することになる。

しかしこの「相対」に振れていたメトロノームが再び逆方向へ動き始める。ソクラテスは人間世界の秩序や倫理観を支えるものとして、重んずるべき「絶対」で正しい生き方があると考えた。彼はそれを「善く生きること」と表現した。この人間の生き方・在り方を追求する思想はソクラテスからプラトンへ引き継がれ、それは「理想主義」の方向へメトロノームを動かしていく。プラトンが説いた「イデア論」は「理想主義」の最たるものであった。彼の思想はラファエロの『アテネの学堂』において、人間が容易には辿り着けない天上の世界を指差す形で象徴的に示されている。だが、プラトンの弟子のアリストテレスが進めた様々な学問の体系化によって、メトロノームは「現実主義」へ向かっていく。先ほどのラファエロの作品において、アリストテレスの手は人間が現に存在し踏みしめている地上に向けられている。

そうして「現実主義」に振れていたメトロノームが逆方向に動くのは、ローマの時代、プロティノスに代表される新プラトン派(新プラトン主義)が活動した頃である。その間のポリス中心の時代からヘレニズム時代において、もう一つ別のメトロノームの動きもあった。ポリス中心の時代は、「人間はポリス的(社会的・国家的)動物である」というアリストテレスの言葉に象徴されるように、人間は「公共的な生き物、外的世界に目を向ける存在」であった。しかしアレクサンドロス帝国の誕生はポリス社会の在り方を破壊し、メトロノームが逆に動いていった。そして、ヘレニズム時代の人間は「私的な生き物、内的世界に目を向ける存在」となっていった。これはゼノンやエピクロスが説くような人間の生き方であった。彼らは、かつてポリス社会での公共的な政治活動によって得られていた幸福が、ヘレニズム時代の世界国家では手に入らないため、人間は自己の内面に幸福を見出すようになったと考えた。

このように古代より、人間は何らかの2つの立場の間を行き来するメトロノームの中で存在し続けている。この後も、ローマによる「統合」から、中世世界の「分裂」へ、しかし中世世界の中でも「統合」と「分裂」のメトロノームが激しく行き来していく。他にも、ローマの「実用的で理性を重んじる傾向」は、キリスト教の登場により次第に「信仰を重んじる傾向」に振れていき、中世世界の後半には再び「理性を重んじる傾向」へ動いていく。ちょうどその頃、トマス・アクィナスやオッカムが登場することになる。その傾向はその後も、科学の台頭などでエスカレートしていくことになる。メトロノームの例はまだまだある。ベーコンなどの「経験が導く真理」とデカルトなどの「理性が導く真理」もそうであるし、カントの「世界を動かす理想・抽象・主観に根差した原理」とヘーゲルの「世界を動かす現実・具体・客観に根差した原理」もそうである。そしてヘーゲル以降、近代の原動力となった「世界を理解・支配しようとする全体的で統一的な思想」から、現代の「世界を正しく理解する上で世界を総括していては見落としてしまう多様性の思想」へ向かう動きも、やはりメトロノームである。

この文を綴る中にもメトロノームがあった。何かを伝えようとするとき、できるだけ詳細に示すことが伝える上では大切だと思えば、それは「散文」的なものになる。それは説明責任を果たそうとする形で「書き手が主導権」をとる。しかしこの形は、行間をきっちり詰めて、細かく論理展開するがゆえに、このように長文になってしまう。だから葛藤がメトロノームのような動きをし、見た目が重々しくならない方が良いのではと、所々、細かい説明を避けて文のリズムを大切にした「韻文」的な部分がある。そこでは行間に様々な意味や解釈の可能性を散りばめられているので、「読み手が主導権」をとることになる。しかし韻文の味わいや理解のためには、読み手の経験や想像力が必要であり、受け取り方は読み手それぞれで違いが生まれるだろう。

散文にも韻文にも、良さがあり課題がある。両方の良さを同時に求めようとすることは無い物ねだりである。だから迷う。どちらが表現として最適解か悩む。どちらかと言えば、私は散文に頼りがちなので、無駄に長くなってしまう。しかし誰かに自らの表現体を眺めてもらいたいと思えば、いきなり最初から重々しいのは適切ではないかもしれない。だから、去年と今年に出版した本の冒頭は、探究学習の思いを正確に伝えたかったが、読み手の心に無理なく染み込むようにと、「韻文」を用いた。いざ書いてみると、自画自賛だが、思った以上に良い仕上がりとなり非常に満足している。私はこれからも韻文と散文のメトロノームの間で迷い悩みながら、文を綴っていくことだろう。

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