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アンラーン💣リラーン📚ためらわん♫run72…⭐季節の行事を味わう仕掛け、表面か本質かという葛藤、試行錯誤か思考エゴかという葛藤⭐️

(これまでの虚栄を解きほぐす「unlearn」のため、頭の中を刷新する「relearn」を躊躇なく進めるための記録)
【記事累積:1938本目、連続投稿:871日目】
<探究対象…授業の仕掛け、表面と本質、節分、季節感>

ラオスやタイやシンガポールの在外教育施設で教員をしていると、日本国内で教員をしていたときよりも、季節を感じるようなイベントの大切さを感じています。在外教育施設はインターナショナルスクールとは違うので、日本の学校で使用している教科書で学習をしているわけですが、小学生の国語の教科書などでは特に季節に関わる内容が並んでいます。しかしラオス・タイ・シンガポールの気候は、教科書に出てくる季節の話と乖離しているため、そのまま教科書の内容を学習するだけでは、机上の話で終わる可能性が高くなります。

そこで教室の装いや授業内の活動などに、季節そのものや季節のイベントのイメージが膨らむような仕掛けを組み込むように意識しています。先週の土曜日は2月3日ということで、「節分」についての話をすることにしました。しかしこのような仕掛けを組み込むとき、いつも葛藤があります。それは「自分の仕掛けは果たして、児童・生徒の学びを優先した『創意工夫のような試行錯誤』なのか、それとも自分の願望を優先した『実験のような思考エゴ』なのか」というものです。さて、今回の節分における仕掛けは一体どうだったのでしょうか。

小学4年生の下巻の教科書には「冬の楽しみ」という単元・教材があります。ここでは12月・1月・2月それぞれの季節の行事(年中行事)に関わる言葉が数多く紹介されています。2月で紹介されている言葉としては、「節分」「豆まき」「福は内」「鬼は外」などがありました。この単元・教材は1月初めに学習し終わってはいるものの、2月3日は土曜授業で火曜・木曜よりも1コマ多いということもあり、その時間的余裕から節分に関する仕掛けをしたいと考えたわけです。

しかしこれまで20年近く教育活動に携わっていて、何度となく耳にした言葉があり、仕掛けについて考えるときその言葉がいつも引っかかります。それは「活動あって学びなし」という言葉です。近年、「主体的な学び」「アクティブラーニング」「探究学習」などといった言葉が良い意味でも悪い意味でも氾濫しています。

そしてこういった言葉を体現するような授業を展開しようとするときに採用しがちなのが、グループワークやディスカッションや発表・シェアなどの「活動」です。これらの「活動」は講義中心の座学と比べると当然に外面的な動きが多く、盛り上がる場面も増えます。しかしそれが結果として、児童・生徒それぞれにとってどれだけ「学び」になり、蓄積されているのかを疑問視する人もいます。そのような授業の感想を訊いたり書いてもらったりすると、「楽しかった」「盛り上がった」などの印象に関わるものが多数を占め、「○○に気づいた」とか「〇〇についてもっと調べようと思った」というような内容に関わるものはわずかということも珍しくないのです。

ならば講義中心の座学が優れているので、そちらで展開すればよいといいたいわけではありません。もちろん授業の仕掛けを創意工夫して、「楽しさ」「盛り上がり」と結びつけることはとても素敵なことだと思います。しかしそれらと繋がる「活動」自体が主役ではいけないと思うわけです。創意工夫はあくまでも「学び」を主役としたものであるべきで、その本質の部分を疎かにしてしまうと表面だけで終わってしまいます。

「目に見える表面的な現象だけを追いかけていたのでは、物事の本質に迫ることはできない」
これは日本のプロ野球選手・監督として活躍した野村克也の言葉として知られています。

この言葉の「表面的な現象」は授業でいうと「楽しさ」「盛り上がり」に繋がってくると思います。しかしその部分ばかりを考え、見た目に分かりやすい「活動」があれば授業として良い状態になるというというのは誤解だと思います。それだけでは「本質としての学び」に迫っていることにはならないのです。

今回の仕掛けをするにあたり、「ちょうど2月3日だから豆まきをしよう」ということだけだったならば、さきほどの言葉が示すように、表面の現象ばかり追いかけてしまい、限りなく「活動あって学びなし」になっていたと思います。しかし豆まきはあくまでも最終的な行為にすぎず、その前段階で「節分」について知る、理解を深める「学び」の機会を持つことが大切だと考えていました。そこで授業の流れとしては、節分という季節の行事についての「学び」を先行させました。この日の授業内容は「熟語の意味」でしたが、他の二字熟語と一緒に「節分」という熟語がどんな意味を持っているのかを考えるようにしたのです。さらに画像を使いながら、恵方巻のことや、今年は東北東が恵方でなることなども紹介しました。

そして休み時間や最後のコマの残り時間を利用し、鬼のイメージを描いてもらったり、豆まき用のものとして豆と書かれた小さな紙を丸めて豆的物体を作ってもらったり、実際に豆まきをしたりという「活動」でその日の授業を締めくくる流れにしたのでした。この順番を逆にしてしまうと、もっと豆まきをしたいという声があがり、節分について学ぶことは難しくなってしまったと思います。そう考えると「学びが先で活動が後」という流れで表面と本質のバランスがとれていたのではないでしょうか。

今回の創意工夫の中で個人的に気に入っているのは、実際の豆を使わずに豆という紙を児童・生徒に丸めてもらい、それを豆まきに使ってみた部分です。実際の豆を用意することは難しくはなかったのですが、既存の豆が配られてそれをまくよりも自分たちで豆的物質を作りそれをまく方が、「不思議な経験」として印象に残るのではないかと思ったわけです。この取り組みは、自分の願望を優先させた実験みたいなもので、「試行錯誤」というよりも「思考エゴ」だったかもしれません。しかし児童・生徒たちは豆的物質を作る過程も楽しんでくれていましたし、本当の豆の方が良かったというコメントもなく、また散らばっても紙なので汚れないといった点を総合的に考えると、「試行錯誤=思考エゴ」としてギリギリながらバランスはとれていたと思います。

欲を言えば、「恵方巻とフードロスの関係」についてもニュース画像やSDGsの話と絡めながら展開したかったのですが、そこまでいってしまうと「試行錯誤<思考エゴ」だなと思い我慢しました。「恵方巻とフードロスの関係」はまた別の機会に扱おうと思います。

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