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❖「できる」と「なれる」はどちらが幸せ?❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年10月4日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

なんでもできるとなんにもできないは表裏一体。人間は様々な能力を先天性ではなく、技術や道具にアウトソーシングで、色々汎用性を獲得してきたが、後天的な選択制は初期状態では何もできないことを意味することになった。可能性は、様々なパターンへの未来におけるアクセスを示していが、どれ一つとして既に獲得しているものはなく、可能性としての100が感じられるだけで、実現性は未だゼロに等しいし、実現させるときは、1つを選ぶときなので、あとの99の可能性は捨てることになる。ということは、100全部が実現することはない。だから、可能性が100それぞれにあるという「何でもできる」は、未来に向かってワクワクキラキラとした状態。しかし、それが全て実現するなどと楽観的ではいけないし、そもそも自分が決断をしてその中から選び取るという勇気が求められる。勇気も持たず、いつか訪れるだろうなどと考えている人は、何でもできるの裏側に貼りついている「なんにもできない」が、いつの間にかひっくり返って顔を出すことになる。人間は様々な能力をアウトソーシングしたのだから、なんにでも姿を変えられるが、勇気をもって決断しなければ、いかなるものにもなることはなく、ただのフワフワグネグネとした不定形の存在と同じである。アウトソーシングせずに或るスキルに特化しているような動物や昆虫など、自然に近い存在の方が、勇気ある決断が不要だから羨ましい?人間は自然からあえて離れて人為の世界を創った。そのリターンは、最初から特化して決めつけられているわけではない可能性。その代わり請け負ったリスクは、なににでもなれるかもしれないという期待があっても、なれるのは決断した1つという悩ましい現実、そして、決断しなければ特化した何かさえ持ちえていないゼロという厳しい現実。決断は勇気が必要だが、その苦悩の末にたどり着いた1は、間違いなく「私にとっての真理」。キルケゴールがいう主体的真理。どの1を選ぶかという選択可能性が人間にはある。だから、その勇気に後押しされる「自己の決断」によって、獣に近づくこともあれば、神に近づくこともできる。ピコデラミランドラがいう自由意志。でも決断しなかったら、人間は特化した獣にすら勝てないし、あらゆる能力を外付けした人間は、自然界では「貧弱な存在」にすぎない。ただし決断という思考を用いれば、自然すべてを飲み込むことができる。自然が考えもしない世界まで想像力を働かせて、有限ゆえの合理的行動を可能にする「偉大なる存在」になれる可能性がある。パスカルがいう一茎の葦。とはいっても、決断は重いし辛い。自分がどんな存在になるべきか、産み落とされたときに定められていない「自分の本質」を後から見出さねばならない厳しい現実を考えると「吐き気」すら覚えてしまう。サルトルのいう実存と本質。人間に与えられた様々な可能性、その中の選りすぐりの1のみが現実のものとなる。どうせ1つしか手に入れられないならば、自分が納得できる主体的真理であるべきだし、それを手に入れれば崇高なる状態になれるように自由意志を発揮すべきだし、そうして獣や自然を圧倒する一茎の葦の矜持を示すべきだし、その結果として人間の理想的な姿といえる実存と本質の関係を体現すべきである。なんにもできないにようなっているのは、なんでもできるため、なんにでもなれるため。影があることに気づいて悲しむのではない。影は光があるから存在している。影が先に生まれることはない。つまり影は主役じゃない。先に光がある。だから聖書はいう。「光あれ」と。光は私たちの希望を照らしてくれる。

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