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❖灯台下暗し、参鶏湯恐るべし❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2022年1月28日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

◆灯台下暗し、参鶏湯恐るべし◆
この日も普段訪れない街を散歩していた。すると参鶏湯のスープ缶が自動販売機で売っていた。これまで変わり種のスープ缶を色々見てきたが、参鶏湯は始めてだった。

なかなか見かけない商品で、これも一期一会だと思い、購入しようとポケットの小銭を確認すると、100円玉が一枚、10円玉が二枚、あとは数枚の1円玉だった。

しかし、参鶏湯のスープ缶は130円で、10円足りない。飲みたいという気持ちが高まっていただけに、この状況は残念でならない。ただ、1000円札を持っていないわけではなかったので、1000円札を使用すれば簡単に購入でき、飲みたいという気持ちに正しく応えることはできる状態であった。

それにもかかわらず、私はその選択を躊躇していた。是が非でも飲みたいというわけではなく、小銭でちょうど買える状態ならばという感じだった。

とはいえ、飲みたいという気持ちが高まり、それが正しく実現させられないことに対する苦しさが心の中に渦巻いているのは間違いなかった。

そんな苦しさを抱えているのに、どうして私は1000円札を使うという選択をしなかったのだろうか(❓)

それには私の勝手なこだわりが関係している。私は様々な物事を、単純な勝ち負けの構造に置き換える癖がある。それは他者との関係だけではない。自分自身の問題でも、テストやスマホゲームなどに限らず、今回のような日常の出来事の中にも何らかの成否を一種のゲームに置き換えて、そこに勝ち負けの要素を見出してしまう。だから、とっさにポケットから小銭を取り出して、望みの商品が買えるかどうかという、かなり偶然性に支配されているような出来事も、私にとっては勝ち負けだったのである。その結果10円足りずに、私はこのゲームに負けたため、そこから1000円札を使うというのは「課金」とか「泣きの一回」みたいなものに映り、気が進まなかったわけである。

ドイツ生まれでアメリカで活躍した社会心理学者であるレヴィンは、心の中で生ずる複数の欲求に苦しめられる状態を「葛藤(コンフリクト)」と呼んだ。彼は葛藤を、望ましい欲求同士の葛藤(接近-接近型)、避けたいという欲求同士の葛藤(回避-回避型)、望むことと避けたいことが併存した葛藤(接近-回避型)の3つのタイプに分けた。

レヴィンの葛藤と、今回の私の状態を合わせて考えると以下のようになる。私はお金を出して参鶏湯のスープ缶を飲みたいが、それはポケットの中に偶然あった小銭で買える場合までであって、わざわざ1000円札を利用して購入するのは負けのような気持ちになるため、それは避けたいというものだった。だから、レヴィンの分類でいえば、望ましいと避けたいが併存する葛藤のタイプ(接近-回避型)に当てはまると考えられる。

人間は葛藤に陥ると満たされない欲求に対してマイナスの心理状態に向かいやすく、それは精神分析ではフラストレーションと呼ばれる。この状態から抜け出すために、正当な解決策ではなかったが、フロイトの提唱に基づき細分化されていった防衛機制の一つ「代償・補償」を私は選択した。

その解決策とは、とりあえず手持ちの小銭で買える選択であった。私は缶コーヒーを買うことにした。そうして目先の欲求充足という或る種のごまかしを選択したわけである。

缶コーヒーを飲み終わり、当座を凌げたと自分を納得させ、再び歩き出したのも束の間、少し間隔を空けて設置されていた自動販売機を見て、私は愕然とした。

その自動販売機にも参鶏湯のスープ缶が売っていたのだが、愕然としたのはその事実ではなかった。その自動販売機の参鶏湯スープの価格は「110円」だったのである。

こんな数メートルしか離れていない自動販売機で、どうしてこれだけの価格差があるのか。これこそまさに「灯台下暗し」である。

私は動揺を隠せなかった。しかし既に缶コーヒーを買い、ほとんどの小銭を使い果たした私には、この激安の参鶏湯スープを買う余力はなかった。

この衝撃の事実によって、負けの気持ちが上乗せされてしまっていので、ここから1000円札を出して参鶏湯スープを購入し、更なる負けを乗せるという選択肢は私には残されていなかった。

「参鶏湯恐るべし」。完全なる敗北であった。

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