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❖感が得る(かんがえる)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年11月23日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

「感が得る(かんがえる)」
最近、ファカルティプログラムでファシリテーションについて試行錯誤する機会に恵まれていて、「考える」というのは、理性の働きが主導で合理的な最適解にたどり着くというよりも、自分の外側から様々な刺激を受け、それを内に取り込み、そして自分の脳・心・身体すべてに行き渡らせて、自分というフィルターを通した上で、何らかの解を生成していく活動なんだと痛感している。だから、外界の刺激がなくとも、理性の力で真理と推論される解を導く合理主義・合理論だけでは、「考える」ことは成立しないし、かといって、自分の外界からできるだけ刺激を受け、積み重ねた経験という集合体の中から真理として取り出せるような解を導く経験主義・経験論だけでも、「考える」ことは成立しないと改めて感じている。やはり、デカルトだけでも不十分で、ベーコンだけでも不十分ということだろう。だから、カントにたどり着く。刺激・経験を感性によって受け取る(感受)。そこから、自分の内にある理性によって解釈し何らかの解(真理や結論)を生成する(得理)。得理の意味は論争や訴訟において主張の正しいことが認められること、またはそのような争いで勝利することだが、自己内対話を一つの争いと捉え、それがまとまった時点は、何らの正しい状態の実現であり勝利といえるだろう。つまり、「考える」というプロセスは、始まりは「感受」で、その取り込まれる「感受」が、「得理」という形で整えられた結果、何らかの解が完成するプロセスであって、まさに「感が得る(かんがえる)」なのである。合理主義・合理論と経験主義・経験論を総合させることで認識が成り立つと主張したカントの批判主義・批判哲学は、この「感が得る(かんがえる)」によって表現できるのではないかと勝手に納得している。

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