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★我楽多だらけの製哲書(28)★~『奴』のように見えて奴は『奴』ではないという事実とオーデン~

再会のようで再会ではない話。
10月中旬に或る「いきもの」との別れがあったことは以前に綴った。『奴』と離れたとき、『奴』は時折ジャンプしながら遠くへ向かっていきそのうち姿が見えなくなった。

それから少し時間をおいて、『奴』に再会したのかと一瞬思った。夜の散歩中、細い路地をジャンプしながら横切る存在を発見した。姿が見えなくなる前に近づかねばと思い、急いで駆け寄る。しかし「奴は『奴』ではなかった」。

『奴』より奴は二回りほどスケールが小さかった。
奴は『奴』よりもお腹のまだらが多かった。
『奴』より奴は微かな音で鳴くことがある。
奴は『奴』よりも食欲が旺盛である。

私は奴の保護に成功した。
以前に『奴』を保護したときは、装備不十分でたまたま持っていたビニール袋の中に入ってもらい、散歩を途中で切り上げて家に戻った。戻る途中、すれ違う人に『奴』の存在がバレてしまわないように、不自然にならない程度に袋を持つ手を歩くときの腕の揺れに見せかけて、そそくさと通り過ぎた。しかし、高齢の女性とすれ違ったとき、袋の中の『奴』が予想以上に激しく動き、外から見ても袋に生命が宿ったかのようになったため、袋を不思議そうに眺められてしまった。

そのときの経験から、それ以降は、散歩途中に『奴』のような存在に遭遇することを想定し、保護するための道具をいくつか準備するようになった。しかし、『奴』が我が家に留まっている期間中は、『奴』のような奴に遭遇することはなかった。

その後、『奴』が我が家から旅立ってから、私は奴と出会ったのである。たださきほど述べた通り、「奴は『奴』のようで、実際には『奴』ではなかった」のである。

奴と『奴』。
2つの奴。
これは単なる言葉遊びにすぎないし、それぞれに対して同様の漢字をあてているが、そもそも両者は現実世界または現象界に存在し得る存在である。それゆえ存在として独立であり、別個でもある。

これに対して、同様の漢字をあてながら、両者がどちらも現実世界または現象界に存在しているわけではないケースもある。

「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し 心許しながら
この冷たい街の風に 歌い続けてる…」

これは日本のシンガーソングライターで1992年に逝去した尾崎豊の代表曲『僕が僕であるために ~MY SONG~』の歌詞の一節である。

この歌詞において、「僕が僕である」という形で、2つの僕が登場している。
この2つの僕は、どちらもが現実世界または現象界に存在している僕という存在を示しているわけではない。主語に位置する僕は、認識の主体としての僕であり、現実世界または現象界に存在している。それに対して述語に位置する僕は、認識の対象(客体)としての僕であり、またその認識というのは、鏡に映して知覚できる「身体としての僕」ではなく、自分が何者であるのかを説明してくれる「アイデンティティとしての僕」である。それゆえ、「僕である」というのは、自分の存在価値や存在意義に関わる僕を意味している。

「Young people, who are still uncertain of their identity, often try on a succession of masks in the hope of finding the one which suits them - the one, in fact, which is not a mask.(まだ自分のアイデンティティについて確信を持てていない若者は、自分を表わしてくれるようなぴったりの仮面を探して、色々な仮面をつける試みを繰り返すものである。しかし実際のところ探し求めているのは仮面ではないのかもしれない。」

(以下、考察は続く)

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