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【小説】 祖父の作った天使 【ショートショート】

 私がまだ幼い頃、世間は止まることを知らない好景気に浮かれ切っていた。
 使い慣れない金を持て余した連中がさらに金を増やそうと妙な投資が流行ったり、そこらの主婦共が高額な美術品を購入したり、ニューヨークの一等地を日本人が買い占めたりと、景気が底冷えし続けている今となってはまるで考えられない時代でもあった。
 そんな時代、祖父がしていた仕事のことを私は時々思い出す。
 私の祖父は庭の隅に建てられた納屋で、「天使替え」を生業としていた。

 今ではほとんど見なくなってしまったが、当時違法な高額売買の一つに「天使」があった。
 天使はその大半がアイスランドやグリーンランドの北極圏で乱獲され、個体の数が限られていた為に本物の天使が市場に出回るのは稀だった。

 週に一度、幌付きのトラックに乗ったその手の筋者が祖父を訊ねて我が家へやって来ていた。

「おう、坊ちゃん。じいちゃん、いるか?」

 いつも来るその男は額に大きな傷痕を持っていて、まだ小さかった私に千円札を握らせることが何度かあった。
 母屋へ祖父を呼びに行くと、寡黙な祖父は決まって私の声掛けに返事をすることもなく草履姿で外へ出て来た。
 幌を外したトラックから、翼の生えた毛のない真っ黒な生き物が下ろされる。
 麻酔薬で眠らされているようで、その生き物はいつ見てもぐったりと身体を横たえていた。頭は確か、羊のような形をしていた。

「おじい。こいつ、マレーシアもんらしいんだけどさ、どうにかなるかい?」 
「おう、三日もありゃな」
「じゃあ、木曜までに頼むわ。木曜の午後、引き取り来るわ」
「おう」

 祖父はその生き物を見下ろす時はいつも眉間に皺を寄せ、忌々しげに顔を顰めて煙草に火を点けていた。
 生き物は祖父の身長とそう変わらないほどの大きさだったが、祖父は何か呪文のような言葉をぶつぶつ呟きながら生き物の手を掴み、引き摺りながら納屋の中へ消えるのであった。
 その言葉がラテン語だったと知るのはずっと後の大人になってからのことだった。

 私の父と母は共に会社勤めをしており、祖父の生業について家庭内で話すことはただの一度もなかったし、今となってもその話題が出ることはない。
 禁忌とされているというよりも、初めからそんなものは存在していない、という雰囲気の方がしっくり来る。

 真っ黒い生き物を連れて納屋へ消えた祖父を見届けた後、自宅へ戻った私は母にこんな風に訊ねてみたことがある。

「おじいちゃん、納屋の中で何してるの?」
「えー? 鋤とか鍬とか、道具の整理でもしてるんでしょ」
「変な、あの真っ黒い動物は?」
「あら、また野良犬でも連れ込んだのぉ? 本当参っちゃう」
「違うよ。さっき、トラックが来て持ってきたんだよ」
「何言ってるのよ。トラックなんか来てないわよ? 起きながら夢でも見てるんじゃないの」

 母は極めてあっけらかんと、そして明るい口調で言った。その姿に私は幼心にも、これは本当に触れてはいけないものなのだろうと理解した。

 納屋へ連れて行かれた真っ黒い生き物はものの三日で別の生き物ではないのかと思うほどに白く美しい翼を持つ天使へと変貌を遂げていた。

 そっと納屋の中を覗いてみると、足枷を嵌めた天使が退屈そうに白い羽根を弄りながら身を屈めて敷かれた藁の上に座り込んでいた。

「天使さんですか?」

 納屋の隙間から私が吐息とそう変わらないほどの声量で訊ねてみると、天使はこちらを向いて、悍ましいほど美しい顔で微笑んだ。背筋にさえ鳥肌が立つのを感じた。

「トゥエス……オモ……インフェーノ」

 私を指さしながら、天使が嬉しそうにそんなような言葉を呟いたが、私には何を言っているのか全く理解できなかった。
 会話が出来るかもしれないと思っていると、私は首根っこを祖父に掴まれて力づくで納屋から引き離された。
 しかし、恐怖よりも好奇心が勝っていた私は祖父に尋ねずにはいられなかった。

「おじいちゃん、あれって天使なの?」
「友保、二度とあれに声を掛けるな! 分かったな」
「……うん」

 引き取られれる前夜。天使は美しくも非常に悲しい旋律の歌を宵に響かせていた。食卓にもその声は届いていたが、父も母もまるで聞こえていない風に、クイズ番組で珍回答を連発する襟足の長いゴルファーに夢中になって笑い転げていた。
 天使の歌声は私が眠りに就く頃になっても、なお続いていた。

 翌日の午後になると天使はあの男が運転するトラックに載せられ、納屋を後にした。
 人様の目など気にする様子も、運ばれて行く悲哀を感じる様子もなさそうに、天使は終始微笑んでいた。

 祖父は男から紙袋を受け取ると中身を確かめ、母屋へ引っ込んで行った。
 そんなことが我が家ではたびたび繰り返された。

 祖父が亡くなったのは私が大学の三回生の頃で、痩せ細った身体を病院のベッドの上で横たえながら息を引き取った。
 その二日前の晩に、祖父の要望で私達は二人きりになった。
 声も絶え絶えと、祖父は私にこんなことを告げた。

「俺はな……ずっと言ってなかったけどな、天使を作っ……てたんだ」
「じいちゃん……あれはやっぱり天使だったの?」
「……ちがう……あれは偽物だ」
「偽物、じゃあ……悪魔ってこと?」
「それも違う……問題はな……そこじゃない……」
「どういうこと?」
「天使でも、悪魔でも、どちらでもない、すぐにわかる……すぐに……」
「すぐに? 何がわかるの?」
「…………」
「じいちゃん? おい、じいちゃん!」

 それから祖父は二度と目を開くことも、口を開くこともなくこの世を去った。

 偶然の出会いは仕事帰りに立ち寄った馬喰町の呑み屋でのことだった。
 店の主人の額に、見覚えのある大きな傷痕があった。
 主人は私が名乗るとすぐに暖簾を仕舞い、二人きりでずいぶんと長い時間、静かに話した。

「じい様にはずいぶん世話になりました。稼業からも足を洗って、今はすっかりこの通り」

 そう言って注がれるビールの泡立つ音以外に、その店に音は無かった。

「祖父はもう十幾年も前に亡くなりました」
「そうでしたか……手も合わせに行けず、申し訳ありません」
「いえいえ。あの、私が小さな頃に見た……あれは」
「ええ、坊ちゃんにはすいぶんとマズイものを見せていましたね」
「あれは……悪魔だったんですか?」
「……悪魔、というものは姿形として現世には本来、いないはずなんです」
「じゃあ、あれは何だったんです?」
「何、というか。今はさっぱり見なくなりましたが、当時は天使が盛んに売買されてました。けれど天使が底をついたんで、じい様にはご存知の通り天使替えをやってもらっていました」  
「天使替え?」
「坊ちゃん、まさかご存知なかったんですか?」
「いや。具体的なことは何も……」
「そうだったんですか……そうですか……」

 小鉢に突き出しを入れていた主人は手を止め、神妙な面持ちで私を眺め始めた。
 私自身に何か、不味いことでもあるのだろうかと思ったが、主人はパッと笑顔を咲かせると大きく頷いた。

「いえ、坊ちゃんには何の害もないです。どうか、お気になさらず」
「そうですか……あの、ではあの生き物は……?」
「坊ちゃんは、聖書をご覧になったことはありますか? これ、どうぞ」

 突き出しは筍の煮つけだった。一口齧るだけで筍の新鮮な歯応えがあり、薄味だがしっかりとした出汁の旨味が口の中いっぱいに広がった。
 自然とビールで流し込んでいた。素朴な見た目なのに、たまらなく旨かった。
 聖書についてふと考えてみたものの、私の記憶の何処にも行き当らなかった。

「聖書に関しては……いや、それがまったく通っていないんです」
「そうですか。悪魔というものはね、元は使いだったんですよ」
「使い?」
「ええ、神の使いです。神によって地獄に堕とされた使い、つまり悪魔を天使にすげ替える。それを喜んで買う馬鹿がいたんで、商売が成っていた訳です」
「それが天使替えだったんですか。あぁ……でも、悪魔は姿形として現世にいないって、さっき」
「そう、それが問題なんです。じい様が作った者達の元が一体なんだったのか。私自身、仲介業者としてあれが悪魔だと聞かされて運んでいただけなんでね、本当の出処なんか知らなかったんです」
「じゃあ、あの生き物は何だったんですか?」
「私の個人的な考えですけど、あれは多分現世で堕ちた天使ですよ」
「現世で?」
「アホな考え方をすれば捨てられたペットと同じようなモンですが、人間に天使の性質を変えるほどの力はありません」
「……すみません、全然わからないです。そういうのは、明るくないもんで」
「いえ、私こそ勝手にベラベラと調子のっちまって。ただ、仮に人に飽きられて見放された天使が現世で堕ちるということは……こういうことなんじゃないかって思うんですよ」
「どんなことです?」
「この世界こそが、実は地獄なんじゃないかって」
「……そういう、ものなのですか?」
「じゃないと、悪魔を天使に替えるだなんて到底無理です」

 主人との会話はその後も続いたが、聖書や神学的なことはさっぱりな私にはそのほとんどが理解不能なおとぎ話にしか思えなかった。

 それから数日後、海の遥か向こうで戦争が始まった。
 祖父がすげ替えた天使達が今頃何処で何をしているのかを、たまに考えている。
 死に際に言い遺そうとした祖父の言葉の意味が、その輪郭が、近頃ようやく浮かび上がって来たのだろうと実感している。

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