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摂氏37度

 摂氏37度の炎天下、茹だるような熱がアスファルトから放たれ続ける道の途中で、私は途方もない気持ちになった。
 これから向かわなければならない顧客先は、田畑に囲まれた僻地にそびえ立つ巨大な物流倉庫内に拠点を構えていた。

「大体、バス停から歩いて……確か15分くらいかな?そんな遠くなかったと思うよ」

 課長の岩瀬にそう言われ、軽い気持ちで顧客先へと赴いたのだが、どうやら到底15分で着きそうな距離には無かった。
 建物があまりにも大き過ぎて、遠目でも田んぼの奥にその姿が確認出来るのだが、歩けば歩くほどに私はその建物から遠去かっているような錯覚を覚えた。
 Googleマップで確認をした所、バス停から物流倉庫までは歩いて25分は掛かるらしかった。私は肩を落として、今朝の岩瀬との会話を反芻した。

「あの、マジでバス停から近いんですよね?」
「近いよ、全然近い」
「社用車で行ったらマズイですか?」
「別に構わないけど、今日空きがないんだよ。他、皆遠い所ばっかだからさ」
「じゃあ公共交通機関しかないか……」
「暑い所申し訳ないんだけど、頼むよ」
「まぁ、はい。分かりました」

 私が公共交通機関での移動を嫌うのは、いや、他の者達も同様なのだが工具箱を持っての移動は身体に負担が掛かるのだ。それも、スーツを着て移動しなければならない。バカバカしい、と呟きながらワイシャツを破り捨てようと思ったのは一度や二度ではない。
 複合機のリースやメンテナンス業を生業にしている私達は、常に道具とワンセットで日々あちらこちらへと動き回る。
 知らない世界を垣間見る事が出来るので始めの内こそは毎日が新鮮だったのだが、慣れてしまえば結局向き合うのは壊れた複合機なのだと知らぬ間に気付かされた。
 とっとと片付けて、次へ向かわなければならない。次はこんな辺鄙な場所とは真逆のビル群の中に、私は道具と共に飛び込んで行く。
 適当な事を抜かした岩瀬に心中で何度も毒突き、汗で湿ったワイシャツが背中に張り付いた頃、私はようやく巨大な物流倉庫の入口へ辿り着いた。
 年配の警備員に指示され、記帳を終えると警備員は呆れたような笑い方をしながら言った。

「お兄さん車じゃないの?」
「ええ、バスで来ました」
「こんな暑い中バスで来たの?いやー、そんな人滅多にいないよ」
「そうですか。社用車が空いてなかったもんで」
「いやいや、ご苦労さん。イーストさん、二階上がって左手ね」
「はい。ありがとうございます」

 そりゃこんな僻地にバスで来ようなんて奴、滅多にいないだろうよ。そう小さく漏らしながら、私は顧客先の「イースト総合ロジテック」の扉をノックし、事務所へ入った。

「失礼します。コピー機故障の件で参りました、マルチテックスの多田です。本日、ご担当の長谷部様はいらっしゃいますか?」
「あぁ……ここ、名前と時間、書いて下さい。ここでお待ち下さい」

 ボブカットで茶髪の中年女が愛想笑いひとつ浮かべず、私に背を向ける。腹の肉が制服に食い込んでいる。
 しばらくすると白い作業着の禿げ上がった中年男が現れた。

「あー、待たせてすまんです!私、担当の長谷部ですわ」
「マルチテックスの多田です」

 事務員とはまるで対照的な明るいその男が担当の長谷部だった。私達は名刺交換をすると、長谷部はわざとらしく目を見開いた。

「はぁ、これでオオタなんや!タダ、やないんやな」
「えぇ、よく間違えられます」
「タダやったら商売にならへんもんな、なぁ!?ええ名前やで」

 ワハハ!と、長谷部の笑い声だけが事務所に響いた。他の者達は皆一様にモニターを眺めたままクスリともしなかったが、長谷部は気に止めず続けた。

「あんたらええ金取りよるんやろ!?ホンマええ商売やで」
「いえ、四苦八苦しながらあちこち駆けずり回ってますよ。それでトントンです」
「またまたぁ!そいや岩瀬君は元気しとる?」
「あぁ、課長の岩瀬ですか?今日は事務所にいますよ」
「しばらく会ってないわぁ。君ん所は来るたんび人が変わりよるからなぁ」
「すいません、地方も含めてあちこち行ってるんで、人出も足りてないんですよ。もしご不安なようであれば担当の固定を岩瀬に掛け合いますので」
「いや、別にええねんけど。何ぞ聞いとらん?」
「いえ、特に何も……」
「うん、ならええねん……別に」

 長谷部は先程とは打って変わって神妙な面持ちで私と目を合わせながら、そう言った。私と目は合っていながら、まるで違う者を見ているかのような、奇妙な印象を抱いた。
 長谷部は再び元の明るい顔に戻ると、私の尻を軽く叩いて笑った。

「ま、どうでもええこっちゃ。修理よろしゅう!もう壊れんようにしたってよ?」
「はい、お任せ下さい」

 長谷部は軽い足取りで現場へ戻ったようだった。問題のコピー機を手直ししている間、事務員達は一言のお喋りもせずに熱心に仕事に打ち込んでいた。私の使う工具の音と、キーを叩く音だけが室内に響いていた。
 ずいぶん熱心だな……。そう思っている所に現場従業員らしき女が二人、入室して来た。
 外国人留学生だろうか、まだ若そうな浅黒い東南アジア系の女だった。
 一人がカタコトの日本語で、先ほどの無礼な中年事務員に何かを必死に告げている。

「アナタと、長谷部サンと、ずっとヤクソク、してたよ。ナンデ、ダメ?」

 中年女は何かを懇願する女の声に、小馬鹿にするような口調で答えている。

「分かってるだろうけど、人が足りないの。ひーとーが足りーなーい!私達、忙しい、わかる?イソガシイ、分かりますかぁ?」
「デモ、ワタシ達ビザのコウシン、あります。ビザのキレル、ハタラク、デキナイヨ」
「そんなもん知りませーん、休日申請は却下します」
「ヤクソクデショ?ナンデ?」
「私はあなたといつ、何時何分何十秒に約束したのかなぁ!?私は知らないよぉ?いつ何時何分何十秒?答えられないなら受付はしません。はい、却下します」

 ひどい女だ。そう思っていると、まだ若そうな日本人の男の従業員が入室して来た。髪が伸び放題に伸びていて、汗で顔に髪が張り付いている。何を話しても不潔な印象しか残らなそうな男だった。

「永井さん、明後日有給取れないっすかね?」

 あの女は永井と言うのか。名前を知った所で、どうにも思わないが。
 永井はシナを作り、上擦った声で返した。

「えー?マー君、まーたお休みぃ?」
「永井さん、マジお願いします!マジカルの新台入れ替えなんすよぉ」
「ほーんと、好きだねぇ。じゃ、申請書お願いね」
「あざーっす!」

 そんな理不尽なやり取りを二人の留学生はぼんやりと眺めている。話の半分は理解しているのだろうか。
 すると、そこへ長谷部が戻って来た。

「おー、何やコレ?コラ青木、また有給か?」
「はい、あの……」
「またコレ、やろ?」

 長谷部はパチンコのハンドルを回す仕草をしながら、卑しい笑みを浮かべて見せた。青木という男は、だらしなく笑った。

「へへ、マジこればっかりは譲れないっす!さーせん!」
「手数料1万な、買っても負けてもやで!」
「そんなぁ、キツいっすよぉ!」

 二人の笑い声が響くと、長谷部は笑いながら留学生達に目を向けた。

「何やおまえら、何でおんねん?戻れや」
「ヤスミノ、ヤクソクシテタ事、長谷部サン、オネガイシマス」
「約束?んなもん知らんわ!おまえら何でここにおんねん聞いとるんや!とっくに休憩終わっとるやろ!」
「ワタシ達、キュケイ遅カッタ。ダカラ、マダ、アリマス」
「バカタレ!現場はとっくに動いとるわ!下らん事ごちゃごちゃ言うとらんとさっさと現場戻らんかい!」
「マダ、ハナシテル、デス」
「何が話しとる、や。舐めやがって。うちはなぁ、日本人優先企業なんや!ロクに意思疎通も出来んもんと約束なんか出来るかい!おおう!?女やからって関係あらへんで!ブチ食らわさんと分からんかコラァ!」

 顔を真っ赤にした長谷部が威勢付いて怒鳴ると、喋るのがあまり得意ではなさそうな方の留学生は目に薄らと涙を浮かべ始めた。彼女は傍目から見ても、完全に怯え切っていた。
 青木という男はそんなやり取りの傍で、手を鼻の下に置き、クスクスと笑っていた。下品な男だ。
 しかし、喋る事が多少出来る様子の留学生は怯む事なく毅然としている。

「ワタシ達、ビザないと、ココ来ラレマセン。ビザない、アナタ知ッテルハ、捕マルデショ?」
「……なんや、クロンボが一丁前に悪知恵に脅迫かい」
「長谷部さん、クロンボって!それ、それ人種違いますから!」
「黒かったらクロンボやろ。何がおかしいねん」
「出たぁ、ヘイト!レイシスト、キター!完全にキタわ」

 青木がそう言って、一人で笑っている。
 こんな所に長く居たら気が狂いそうだ。修理も終わり、もう確認する箇所もないので、私は帰り支度を始めた。

「お前らここで働けんようになったら何処も使ってくれる所なんかあらへんで?ろくすっぽ日本語も喋れん癖に変な知恵だけはついとるようやしの!なぁ、青木?」
「さいですねぇ、困りましたね。お姉ちゃん達、それってブローカーの入れ知恵っすかぁ?」
「何や、そんな悪い事まで教えよるんか?」
「らしいっすよ?5chに書いてありましたもん」
「うちで働くんが嫌やったら他所へ行けばええねん、うちかて使いたくて使ってる訳ちゃうわ……日本語は喋られへん、ミスは多い、仕事は遅い、こんなゴミみたいな……」

 私は耐えに耐えかね、声を上げた。

「長谷部さん、失礼します」
「お、早いな!もう終わったんか?」
「はい。トナーの挿入口に異常がありまして、修正したら直りました」
「おお、流石プロやな!もう壊れへんかぁ?ホンマ頼むでぇ!」
「はい、大丈夫です」

 私は最後の確認を、長谷部にお願いした。

「弊社の方針で作業中の手元の様子を動画で撮影してますので、確認してもらってよろしいですか?異常音なんかもあるので、音声も記録してるんですけど」
「撮影て……君、いつから?」
「コピー機開けて、それからずっとですね」
「な、何でや?それ、無許可とちゃうんか!?」
「いえ、このコピー機はリースですよね?弊社の資産となってはおりますが、作業の不備があるといけませんので」
「そ、そうなんや。へぇー……」

 普段はビデオカメラで撮影した動画を早回しでざっと観てもらうだけなのだが、今回は途中から通常再生に切り換え、長谷部に確認させた。

「ここでトナー部分から異常音がしてるんですけど、聞こえますかね?」

 再生されたトナー音の異常は長谷部の怒鳴り声に掻き消されてしまっている。だが、私は確認を促した。

 ビガー、ゴゴゴ何が話しとるや、舐めビーゴッゴッゴツうちはなぁ、日本人優先企業なんや!ゴッゴッゴッ意思疎通も出来んもんと約束なんか出来るかい!おおう!?女やからって関係あらへんで!ブチ食らわさんと分からんかコラァ!

「聞こえますかね?」

 長谷部は途端につまらなそうな表情になり、忌々しげに呟いた。

「あぁ……まぁ、微かにな……」

 私は報告書の一部にサインをもらい、イースト総合ロジテックを後にした。こんな所、もう二度と来たくなかった。
 警備室の前で退室の手続きをしていると、背後から慌ただしい足音が聞こえて来る。
 振り返ると、その足音は長谷部のものだった。

「兄さん、今日はホンマお疲れさん!あの、これ、少ないんやけど足代に……」

 私は長谷部が差し出した茶封筒を受け取らず、辞退した。

「結構です。会社から交通費は出ますので」

 顔を真っ赤にした長谷部は茶封筒を廊下に投げ捨て、突然私を怒鳴りつけた。

「アホンダラァ!ボケ!岩瀬のガキに担当変えろ言うとけや!」
「……承知しました。岩瀬に検討させます」

 長谷部の震える背中を横目に、私は巨大倉庫を後にした。
 すぐに出迎えた炎天下の摂氏37度は、私の怒りよりは幾分涼しく感じられた。

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