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遺書

遺書というタイトルで書き始めた。当然、今から死ぬつもりなど毛頭無い。
しかし、人を驚かせたり肝を冷やしたりする文は常日頃書いてはいるが、これは小説ではない。

今から数年前。いつか書きたいと思っていた小説を書き始めた頃、とてもでは無いが社会の明るみに出れるような人間では無かった。

それは人間的な性格という類のものではなく、社会的な制約によって縛られていたからだ。
声を大にして人前に出ることは当然憚られ、表現よりも真っ当な人間として汗水働き、朝起きて食って寝ることを期待されていた。

初めの一年は何も考えず、余計なこともせず、ただひたすら働き続けた。願いを口に出す事は愚か、願いを持つ事すらにも蓋をした。
その中で出会う社会的に這い上がる気力さえ失くした底の底に居座るような人達の人間関係や言葉には、いつも大変力強いものがあった。
ある日50を過ぎた独身男がヤラシイ笑みを浮かべながら、こんなことを言ってきた。

「梱包のちっちぇババアいるだろ? もう60過ぎていやがるよ。あんな汚ぇ身なりしてんのに、あいつの秘密知ってるか?」

カチカチに固まった目ヤニを付けながら彼が話すババアなる人物は部署がまるで違ったので、うろ覚えではあったがやたら背の低い婆さんがいるのは知っていた。

「あぁ、なんかいますね。秘密なんかあるんですか?」
「あいつよ、会社ん中で売春やってんの! 知ってたか!? ○○が買ったってんで、喜んでやがったぜ!」
「ええ?」

○○というのは新人の男の子で、腫れぼったい目にボサボサ頭で如何にも女に縁が無さそうではあったものの、まさかこんな所で婆さんを買わなくてもいいじゃないかと思ったのだ。
職場で売春をやっている、という事自体は底辺職場では割とある話なので特に驚きはしなかった。それなりの会社でも金銭のやり取りは無くても似たような事はあると思う。
ただ、いくらなんでもあんな汚ぇババアを金出して抱くかね? と思ってしまったのだ。
売春婆はお世辞にも綺麗とは言えず、作業服の肩の部分にはいつもフケの粉が積もっていた。
横を通ると何故かいつも魚臭く、頼むから風呂入ってくれや、と所長に懇願された事もあった。

とんでもねぇ話だな。そう思っていたが、後日判明した話だとその話題を持ち出したおっさんはそんな婆に俺も買うと持ちかけた所、

「タイプじゃない!」

と断られたのだという。

それから毎週末になるとおっさんは売春婆が男と待ち合わせするセブンイレブンの駐車場に車を停め、ババアが男と合流してホテルへ行くのを尾行したりしていたのだという。
その頃の僕は完全に一人しか居ない部署にいた為、中々情報が入って来なかったから話がどんどん展開して行くのにも全く気がついていなかった。

気づいていない間に、おっさんはカッターナイフを取り出して売春婆さんを買っていた同じ部署の男に切り掛かったのだという。
周りが取り押さえた為に怪我人は出なかったものの、おっさんは売春婆に惚れていたとかそういうことではなく、恐らく自身のプライドが傷付けられたことに我慢ならなくなったんだと思う。

話をしていても素行の悪さ故にそうなった、としか言いようのない話し方や態度だったので過去に傷があるんだろうな、とは感じていた。
おっさんは一本だけ金歯のある前歯に刺さった爪楊枝をプッと地面に吐き捨てて喫煙所を後にするのだが、当然それを拾っている姿を見た事は無かった。

頭では分かっていても、自ら破滅を招く人種というのがいる。
止めてくれる人達の声を聞かないどころか、人が止めたいと思うこと自体を信じていなかったりもする。

どうせいいヤツぶりたいだけだろ。
だったらテメーが責任取ってみろ。
誰も見てなかったら同じこと言えるんか?

そんな言葉を振り回し、人に叩きつける人種。
それは信じる事を恐れているようにも思えるし、心底嫌悪しているようにも思える。

化の皮とはよく言うが、誰しも程度はあれどこの皮を被っているだろう。僕もそうだ。
けど、その化の皮を剥いだ時に現れるものが全て醜悪で恐ろしいものであるとは限らない。

中には人を大切に想う心や、慈しむ心、愛する心を隠してる人達だって居たりする。

おまえの汚ぇ部分を見せてみやがれ。

そう想いながら剥いだ皮の下の柔らかさに、そのおっさんも出会えたら良かったのに、と僕はたまに思ったりする。

以前にも話をしたが、僕は死のうと思って失敗したことがある。
金もないし親友は死ぬし恋人も失い、何もかもが嫌になり、消えてしまいたいという想いが募った挙句の行動だった。

結果、今ではあの経験があって良かったと思っている。
それが今を生きる事に対する相反する事象として軸になっているので、命に対してブレることがなくなったからだ。

そのおっさんは今まで死のうと思った事はあったのだろうか。
俺が死のうとした時、そういえば遺書を残さなかったな。

そう思っていたのだが、小説を書き始めた頃に思っていたのは作品というより「遺書」を残すつもりで書いていたことだった。

自死はせずとも、自然とその日が来ることに備えていた。
だから、書くというよりは残すという方がしっくり来ていた。

けど、今は書いている。間違いなく、思い描いたものを書いている。

技術が届かず完全には書ききれない悔しさを抱きながらも、残すのではなく読ませる為に書けている今が、それとなく嬉しいのだ。

これは人の縁のおかげであり、読んでくれているあなたのおかげでもある。




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