【小説】 『』 = 「」 【ショートショート】
始業から一時間半。イラ立ちがついに限界を迎え、私は我慢がならずに扉を押して無機質なオフィスからそっと抜け出した。
誰にも見向きもされないのは呆れられているからだろう。正直、小言を言われるよりもよっぽど助かる。
急いた気持ちを抑えることが出来ず、やや乱暴にロッカーを開けて鞄の中をまさぐり、取り出したソフトケースの中身を確認して、私は気を落とした。残り本数、ゼロ。
エレベータまで小走りになって向かい、乗った途端に一階行のボタンを連打する。
小さく頭を下げた警備室の守衛を無視して外へ飛び出すと、熱を帯びた空気が一気に私に襲い掛かって来た。忌々しい夏を追い払いながら、向かいのコンビニへと駆け込む。
レジに立っていたのはいつも居る年配の女性店員ではなく、見覚えの無い浅黒い肌の青年だった。外国人だろう。私は一息でこう伝えた。
「赤マルソフト二つ」
青年は首を傾げ、私に怪訝な目を向けた。私はもう一度、伝えた。
「赤マルソフト、二つ!」
「アケマ、ソッツ?」
「あー、もう。違う! 四十六番、四、六! 二個、二個!」
青年は無反応で振り返り、煙草を二つ手に取ってレジを打った。
コンビニを出た私はぶつぶつと一人で文句を発していた。歳を重ねるうちに自然と独り言が増えて行くから不思議だ。
「ったく、日本語も分からない外人なんか使いやがって……馬鹿にするのもいい加減にしろってんだよ」
パッケージのビニールを剥がし、指から離して捨てる。茹だるような夏の真下、狭い場所で行われている電線工事の作業員を睨みながら、私は喫煙所へ辿り着いた。そして、絶句した。
公園の入り口に作られていたはずの喫煙所が、知らぬ間に撤去されていたのだ。昨日までは確かにここにあったはずなのに、何の予告もなく撤去されてしまった。
私は「クソッ」と声を漏らし、地面を蹴った。
そろそろ戻らなければ。きっと「またサボッてる」と裏で言われているに違いないのだ。けれど、オフィスの入るビルは全面禁煙なのだ。以前は階段の踊り場に灰皿があったのだが、二階の会社の馬鹿共がボヤ騒ぎを起こしたせいで全面禁煙になってしまった。
あの馬鹿共を火の中に放り込んで殺してやりたい気持ちになりながら、私は煙草を咥えた。公園に入ろうとするベビーカーを引いた若い女にジロジロと怪訝な目を向けられる。私は腹いせのつもりで、振り返ってその尻をまじまじと眺めてやった。
ふん、禁煙など知ったものか。そう思いながら、私は公園の入り口に立ちながら正々堂々と煙草に火を点けた。
嗚呼! うまい! なんて旨いんだ! 炎天下。蝉の声を聞きながら吸い込むこの紫煙が、私に生きている実感をこれでもかと与えた。
旨い、煙草はなんて旨いのだろう。全身の血管を巡るニコチンが、すぐに私の脳へと辿り着く。至福は今、ここにある。
「あの、子供がいるんですけど!」
煙を深く吸い込み、目を閉じているとさっきとは別の女に声を掛けられた。麦わら帽子を被っていて、顔はまんまるでそばかすが目立っていた。
手を繋いでいる五歳くらいの女子もまた、まんまるな顔をしていて少しも可愛く思えない。
私は煙を吐きながらこう返してやった。
「あのな、大人だっているんだよ」
煙草を地面に叩きつけ、私はその場からそそくさと退散した。
ただでさえ暑く、せっかくニコチン切れの拷問から解放されたばかりなのにこれ以上面倒になる事だけは御免だった。
背中に罪悪感を多少覚える自分自身に辟易としながら、電線工事の袂に立つ警備員の傍へ唾を吐いた。
エレベータに乗り、五階へ上がる。何事もなかったかのような顔を作りながら扉を押し開け、私は絶句した。
鳴り響く電話を取る彼らのうちの数人が、煙草を燻らしながら電話応対していたのだ。
流石の私でもオフィス内で喫煙をした事など一度もないと言うのに、彼らは自暴自棄にでもなってしまったのだろうか。
煙草を燻らす事務員の女に、私は尋ねた。
「おい、流石にオフィス内ではマズイだろ」
「はい? 何がですか?」
女は細い眉をひそませ、私を睨んだ。何がとはなんだ、この女。
「馬鹿、オフィスで煙草を吸うのがマズイって言っているんだ」
「何言ってるんですか? そんなのいつもじゃないですか。石井さん、熱でもあるじゃないの?」
女はケタケタと笑い声を上げ、隣の事務員に何か伝えている。
隣の事務員が私を指差し、同じようにケタケタと笑い声を上げ始める。
次に、新入社員の若手連中が煙草を燻らしながら腹を抱えて笑い始める。
黄ばんでいる壁紙、埃の詰まったエアコンの送風口、時代遅れの大きなパソコンに違和感を覚え、私は途端に眩暈を覚える。
彼らの笑い声がぐわんぐわん、と揺れている。
石井さん、おかしな事言い出して。
ボケるのはまだ早いですよ、石井さん。
いっつもおかしな事ばっかり言うんだから、石井さんったら。
煙草の煙が漂い、景色が歪んで行く。
折れ曲がったブラインドの前で笑い声を上げる社員達。
おい、お前達。私は違うんだ。顔を知っているはずのお前達は、一体誰なんだ?
石井さん? 私の名前は田辺なのに。お前達は一体、誰なんだ。私は一体、誰なんだ。
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