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生きる道すがら
生きながら死ぬか、死んだように生きて行くのか。
カート・コバーン、もといニールヤング、そしてイースタンユースと語り継がれた言葉だ。
カートはコートニーラヴと子供を残して納屋でショットガンで頭を撃ち抜いたが、皮肉なものでこの言葉を発したニールヤングは今もサイコパスみたいな顔をしながらバリバリ生きている。
イースタンユースの吉野さんは一度は死に掛けながらも、再び声を大にして生きることを訴えている。
ボーカルではなく、ヴォイス担当というのが良く分かる。
生きている中で、初めてまじまじと死体を眺めたのは小学五年の事だった。
母方の父、つまり僕の爺さんが死んだのだ。
人生で会ったのは2回だけ。婆さんは僕が生まれた頃にはもう死んでいたし、父方の爺さん婆さんに至っては名前すら知らなかった。
脳梗塞で死んだ爺さんは身体が硬くなっていて、それを面白がっていた記憶がある。
それから勝手に身体だけは成長し続け、二十二歳の頃にとんでもなく大きな死に直面した。
毎日のように一緒にいて、また来週ねーなんて手を振って別れた親友が死んだ。
先輩が言っていた。
「葬式に出るのも恐ろしいもんで、慣れちまうんだよ。いつかおまえにもわかるよ」
本当かよ。人の死がこんなに辛いのに、慣れる訳あるかよ。そう思っていた。
けど、それからというもの、知ってる人が死ぬ事が増えた。
十年近く勤めた職場で、自殺した上司が三人。
先輩が二人。病死、事故死も二人。
それ以外にもプライベートな付き合いの中で死んでしまった人もいる。
僕を小さい頃から可愛がってくれて、父親代わりに面倒を見てくれてたおじさんも煉炭自殺で亡くなった。
兄貴が偶然、亡くなる数時間前に居酒屋で出会していた。
「久しぶりだなぁ!また会えて嬉しいよ!今日は俺の奢りだ!」
気分良く、その場に居た人全員の会計を済ませたおじさんは荒川の河川敷に車を停めて、そのまま死んだ。
「最後、楽しそうだったよ」
兄貴はそれだけを僕に伝えた。
後の事は新聞の地元記事欄で知った事だ。
何も特別な事を話している訳ではなくて、誰にでも訪れるし身近にあるものが死だと思う。
それがどのような経緯であれ、死は死である事に変わりはない。
そこにどんな感情を抱き、向き合うのか目を背けるのかなんてのは人それぞれだし他人の死生観に興味もない。
これは自分の給料明細やケツの穴を晒すよりよっぽどプライベートな事だと思っているから。
ただ、生きる道すがら必ず出会う誰かの死はその誰かが死んだ瞬間に終わるものではない。
本当に小さくて些細な、それこそ一緒に通った事のある小さな通りだったりお店だったり、そんな場所でふとその人が蘇ったりするのだ。
笑い声や、何かに悔しがっていた事や、嬉しそうにする顔や、誰かを罵ったりする瞬間を、ふと思い出してその人が生きていたんだ、と思い返したりする。
今となっては、あの時先輩が言っていた言葉の意味がようやく分かった気がしている。
確かに慣れる。慣れてしまうのだ。
けど、受け入れるとなるとそれは全く別の話だし、人がとやかく言う話ではない。
当たり前だけど僕はあなたじゃないし、あなたは僕じゃないのだから。
答えがすぐに出る世の中になったけれど、答えが出ないものをちゃんと見続けていたいなぁと思う今日なのでした。
それは答えを探す為じゃなくてね。
おやすみ。
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