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朱が呼ぶ 第一章“故郷”

「おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなったから、帰ってきてほしいのよ」
上京し憧れだったライターとしての仕事も軌道にのってきたと思っていたとき、有紗(ありさ)のもとへ母から信じがたい連絡が入る。実家を出てから一度も連絡したこともなければ、番号を教えているわけでもないというのに一体どこから私の電話番号なんて手に入れたのだろうか。
長年にわたって自分を縛り続けた母に嫌気がさし、有紗はもう一生帰らないという想いで実家を出てきた。しかし、それを手助けしてくれた祖父母の訃報にはショックを受けないわけがなかった。
電話先の母は、何年も言葉を交わしていないはずの娘に何も言わずただ祖父母が亡くなったこと、手伝いのために実家に帰ってきてほしいことばかりを繰り返す。
帰りたくない想いと祖父母に最後一目見たいという想いが交差する中で、今はどうしても手放せない仕事の最中であることと飛行機の手配など、現実的にすぐには実家へ向かえないことを話す。
冷酷であるとわかってはいたものの、有紗が今担当している仕事は久しぶりのビックイベント、会社の今後にも影響するプロジェクトの1つであったためどうしても席を外せなかったのだった。
あからさまに残念がる母との話は早めに切り上げて電話を切る。
勢いに任せて口走ったものの、仕事と祖父母を比べることになってしまった罪悪感から友人へと相談してみることにして、今は仕事に戻ることにした。

その日の晩、上京後も連絡を取り合う友人であり有紗の事情も知っている友廣(ともひろ)と充希(みつき)に母から連絡があったが有紗の電話番号を聞かれたかどうか聞いたが2人ともそんなことはなかったと言う。では一体母はどうやって連絡をしてきたのだろうか。
そして祖父母の体調があまりよくないことは、地元の病院に勤めている充希から聞いていたが急に亡くなってしまうほど悪いとは思わなかった。こうなることなら一度でも見舞いに行くべきだったと悔やむ。
「でも、2人とも最初はただの風邪だって言ってたじゃない?…それなのに、なかなか治らなくて困ってたみたいなの」
充希が言うには祖父母だけでなく最近軽い病状でもなかなか完治しない患者が増えているらしかった。
「関係はないと思うんだけど、…最近来る客の中で山の中にある古い空き家に町の人たちが出入りしてるのを見たっていう人がいるんだよな」
実家の酒屋で働く友廣の言ったことに、2人もなんとなく嫌な予感と気持ち悪さを感じ、友廣と充希はもう少しこのことを注意深く探ってみることにして有紗は事によっては帰省すると決めたのだった。

次の日も仕事は相変わらず休憩もできないほど忙しかったが、大事な祖父母の葬儀などにも出られないことへの罪悪感も日に日に増し、このままだと仕事もままならないと、友人であり仕事仲間でもある麻里(まり)にもすべて打ち明けることにした。
「そっか、知らないうちにそんなことが…」
「うん、私も急すぎて何が何だか今でも…」
「病気はそんなに悪かったの?」
「ううん。風邪をこじらせたようなものだって少し前に言ってたけど、すぐ治るって」
大学生のころ、有紗が自分の過去について苦しんでいたことをよく知っていた麻里は、実家へ行っても行かなくてもまた苦しむことになると思う、と正直な気持ちを話した。
有紗も世話になった祖父母へ挨拶をしに行かない苦しみは一生引きずることになるだろうと麻里の言葉を受けてその気持ちが強くなる。
相談に乗ってくれてありがとうとお礼を言う有紗の背に暗い影がのしかかっているのを麻里は言い出せずに見送った。

母からの連絡から2日が経ち、有紗は未だに悩んでいた。
麻里と話した時もう実家に帰ると考え始めたはずだったが麻里はあの時最後に何か言いたげだったことを有紗は気づいていた。麻里にはいわゆる霊感と呼ばれるものがあり、大学時代は有紗が悩んでいるときに助けてくれたことが何度もあった。
しかし今回は話を聞いてくれた時点で有紗の背後をしきりに気にしていて、いつもとは様子が異なっており有紗はそのことが気がかりで仕方がなかった。
麻里の言う通り、行っても行かなくてもどちらでも後悔はするだろう。だが簡単に行くと言えないほど、母が有紗に与えた傷は深いものだった。

有紗が生まれてすぐ父は愛人の元へ消えた。そのショックで母は執拗に有紗を束縛し、異性と会うことや学校以外で外に出ることを嫌がった。
父と出会ったとき赤いワンピースを着ていてそれを似合っていると言ってくれたという理由だけで、母は赤を異常に執着した。
自分だけじゃなく、家には赤い物ばかりが溢れ有紗に着せる服や文房具まで赤ばかり。いつの日にか有紗は赤が大嫌いになった。
今日聞いた声を思い出すだけで、手が震えて涙が出そうになる。幼いころ張り付いたような笑みで有紗ちゃんだけはどこにも行かないわよね、と母は暗示のように繰り返したことを思い出してしまう。
母自身のためだと幼心でもわかっていながら、すべて有紗のためと言う母に不信感が募っていくばかりだった。そんな実家に帰るのは怖い、有紗はなかなか答えが出せずにいた。

そして今日も話があるからと帰って早々に3人で通話を始める。
充希は務めている病院の入院患者の中には普段からよく話す女の子がいたがつい最近に亡くなってしまった。重たい病気だったがいつも明るく努め治療に励んでいたため、充希もかなりショックだったという。両親もすっかり憔悴しきっていて、最初挨拶に訪れた際は心配になったほどだったが最近2人の様子がおかしいらしい。入院中の荷物を受け取りに再び病院を訪れた際、倒れてしまいそうなほど憔悴していた2人はやけに明るく振る舞っており少し異常だったのだ。
友廣から空き家の件で様子のおかしい町民がいることは聞いていたし、これも何か関係しているのではないかと思ったため2人に打ち明けたと充希は言った。
「そういえば俺もさ…」
友廣も、空き家の話を聞いてからまた客が空き家の話をしているのを聞いたと言う。その客が言うには何と友廣の母と有紗の母までもがその空き家に頻繁に出入りしているところを見ていると言うのだ。
有紗の母のことはわからないが、自分の母までそんなところに出入りしているのを知らなかった友廣は家を出ていく母の後をつけた。
そして噂話の通り空き家に入っていった母。動揺を隠せないままにカーテンの隙間から中を覗くと確かに噂通り中では複数の町民が楽しげに話しており、その中心には有紗の母が居た。
有紗は祖父母の死だけでなく、町を巻き込むような異変の中心に母が居ることに混乱するが、このまま遠い場所から見守っているだけではいけない気がして居ても立っても居られなくなった。
2人と話し終え1人になったとき、このままでいいのだろうかと冷静になる。仕事用のカバンに入れてあるお守りから、小さな鍵を取り出して眺めた。
幼いころ有紗と祖母は、よく手紙交換をしていた。その際に母に見られるのが嫌だった有紗は祖母にどう手紙を渡していいか悩んでいたが、それに気づいた祖父が2人に鍵付きの箱をプレゼントしてくれたのだった。
その日から毎日のように今日あったこと、今何が好きだとか…そういう他愛もないことを手紙で交換しあった。
あの頃はこの鍵が大きく思えたが、実際はなくしてしまいそうなほど小さくて、優しく握りしめるとつい昨日のように祖父母との思い出が蘇ってくる。やはり祖父母に会いたい、会って謝って、最後にお礼を言いたいと有紗は急いで荷造りを始めた。

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