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暑すぎたり、寒すぎたり。そんなときはもう、いいんじゃないか。

今日も酷暑。明日も酷暑の予定です。
日本の夏は本当に危険になりました。
明日は写真展をふたつ観に行く予定ですが、戦々恐々とした気持ちです。

コロナの前くらいまでは、どんなに暑くても寒くても、「撮る!」もしくは「撮らなければ!」というものがあれば必ず撮りに行っていました。写真は基本的に「後で撮る」ということが出来ないからです。そのとき、その場所でしか撮れません。例えばいまイチロー選手の打席を撮ろうとしても、すでに引退していますから撮ることは出来ません。現役中に、実際に球場に行ってカメラを構えない限り、撮ることが出来ません。そして打った瞬間を撮ろうと思ったら、何度もシャッターを切らなければその瞬間を撮ることが出来ないでしょう。おそらく失敗するからです。
その場所に行き、何度もシャッターを切る。そして失敗や試行錯誤を繰り返しながら納得する一枚へと近づいて行く。作品制作とはそのような行為の繰り返しでしょう。

しかし、この暑さです。生命の危機です。
カメラを構えてもミスが頻発してしまうでしょう。

私は数年前まで読売ジャイアンツの2軍の試合に足繁く通い、スタンドから写真を撮っていました。詳細は下記のnoteに譲りますが、当時スタンドには屋根がないですから夏の時期は炎天下となり、地獄のようでした。でも撮りたいもの、撮らなければならないものがあるのです。仕事で依頼された撮影ではありません。私の欲望、「業」のようなものです。なおさら退けません。世界中で私しか、その視点で撮る人がいないのです。フィルムに遺す人がいないのです。そういう想いが、使命感が私を奮い立たせました。

作品を愚直に制作している写真家の多くが、このような他人からはなかなか理解されない、もしくは趣味にしか思われないモチーフの撮影に取り憑かれていることでしょう。でも撮影している当人からしてみればのっぴきならない、換えが効かない所業なのです。経済原理や生産性という観点からすれば、単なる「病」にしか見えないでしょう。でもそういう人たちが、そういうことに執着している人たちが社会には必要なのです。それは人類3千年の歴史が証明しています。


話が逸れましたが、そんな想いや「業」に駆られて私も随分カメラを持って駆け回ってきましたが、昨今のような危険な暑さの日には、もう命を顧みた方がさすがによろしいのではないかと思うようになりました。余っ程の場合はあるにしても、もう無理や我慢はしなくてもいいのではと思うようになりました。
それは怠惰では?と思いたくなる気持ちを抑えて、心身ともに健やかな状態で撮りたいと最近は思うようになりました。ギックリ腰になり、接骨院で体中をテーピングでぐるぐる巻きにしてもらってでも撮影に行ったことが何度かありましたが、本来は体や命があっての撮影であり、本末転倒にならないようにと考えるようになりました。


少し歳を取ったせいなのでは?と、基本的にマゾな私は不安になりますが、そもそも、やっぱり暑すぎるのです。調子を崩すと余計なことが増えて面倒くさいですし。

そうやって半ば自分を納得させながら冷房の効いた部屋で過ごしています。
夕方は少し風が涼しくなりました。この春から始めた畑の水やりに行くと、今までとは異なる角度で季節の移ろいを感じます。例えば、トマトとキュウリが終わりに近付いてきたとか。出会う昆虫の変化もそうですね。

もう少しの辛抱で撮影に最適な季節がやってきます。
どうかみなさまもご無理をなさらぬように。
どうかごゆるりと。




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