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隣の客はよく梨食うモモか 

誰しも遭遇する事になる、
たまたま座ったカフェの隣のテーブル。

そこで見かける風景、
交わされている会話は、
どこか
「隣の客は、よく柿食う、客だ」 的だ。

あるいは、
打ち上げ花火が、
空中に消えてゆく様にも似ている。

メンバー同士の予備知識や前提が、
微妙に一致しないカオスなテーブル上の宇宙。

でも、どこか面白い。
何故?

  「 ズ レ 」


ズレは、悪いことばかりでもない。

もし、同じ音が、ただ鳴り続ければ、
音の壁の様なもの、音楽にならない。

というか、音楽として認識できない。

もし、目の前の風景が、
細部まで、まったく同じ画像のまま、
ずっと続けば、
動画が止まっている状態、
世界の動きが止まり、時間も消える。


だから時間は、
自分とは無関係に存在する、
というよりは、

感知する側の、
外部の微妙な変化、
要はズレの集積なのだろう。

もし、外部が一定なら、
あるいは、
感知する側が、感知しなくなれば、
時間は消えるだろう。

そういう状態を
「死」とか言ったりするのだろう。

逆に、
対象が、少しづつズレると、
いやでも動きを感じる、
時間を感じ取れる。

そう言うのを、
「生」と言ったりするのだろう。

人は、対象のわずかなズレから、
時間の前後を知覚する、
今との違いを感じ取る。
全くずれがないと、今を感じられない。

五感が感知するいろいろなもの、
視覚、聴覚、触覚、などが、
対象を分けられないと、
微妙な違いを感知できないと、

次第に、
自分の内部と、自分の外部との、
境界が消えてゆき、
一体化を感じるだろう。

初めは世界との一体化などと、
スピリチュアル系の人は言うだろう。

でも、さらにそれが続くと、
一体化してること自体も、
感じなくなるだろう。

自分の内と外を分けている皮膚のような、
外部と内部の境界が消える様なものだろう。


人間はその中間、
「適度なズレの中で生きている」
ということなのだろう。

ズレているから「生きている」と感じるのかも


できれば、
行きすぎたズレ、
喧嘩や不毛なズレよりは、

みんなでいい感じにズレたい。
「へぇー」とか、
「おー!」とか
「スッゲェ〜!」とか、
良い感じでズレて喜び合いたいよね。


人々は街角で、
会議室で、通りのカフェで。
家族や恋人や、墓の前でも、
ズレている。


そのズレは、
楽しいか、
キレイか、
グッとくるか、
笑えるか、
愛か、
平和か、

隣の客は、よく柿食う、客か
それとも

トナリノキャクハ ヨクナシクウ モモカ

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