隣の客はよく梨食うモモか
誰しも遭遇する事になる、
たまたま座ったカフェの隣のテーブル。
そこで見かける風景、
交わされている会話は、
どこか
「隣の客は、よく柿食う、客だ」 的だ。
あるいは、
打ち上げ花火が、
空中に消えてゆく様にも似ている。
メンバー同士の予備知識や前提が、
微妙に一致しないカオスなテーブル上の宇宙。
でも、どこか面白い。
何故?
「 ズ レ 」
ズレは、悪いことばかりでもない。
もし、同じ音が、ただ鳴り続ければ、
音の壁の様なもの、音楽にならない。
というか、音楽として認識できない。
もし、目の前の風景が、
細部まで、まったく同じ画像のまま、
ずっと続けば、
動画が止まっている状態、
世界の動きが止まり、時間も消える。
だから時間は、
自分とは無関係に存在する、
というよりは、
感知する側の、
外部の微妙な変化、
要はズレの集積なのだろう。
もし、外部が一定なら、
あるいは、
感知する側が、感知しなくなれば、
時間は消えるだろう。
そういう状態を
「死」とか言ったりするのだろう。
逆に、
対象が、少しづつズレると、
いやでも動きを感じる、
時間を感じ取れる。
そう言うのを、
「生」と言ったりするのだろう。
※
人は、対象のわずかなズレから、
時間の前後を知覚する、
今との違いを感じ取る。
全くずれがないと、今を感じられない。
五感が感知するいろいろなもの、
視覚、聴覚、触覚、などが、
対象を分けられないと、
微妙な違いを感知できないと、
次第に、
自分の内部と、自分の外部との、
境界が消えてゆき、
一体化を感じるだろう。
初めは世界との一体化などと、
スピリチュアル系の人は言うだろう。
でも、さらにそれが続くと、
一体化してること自体も、
感じなくなるだろう。
自分の内と外を分けている皮膚のような、
外部と内部の境界が消える様なものだろう。
人間はその中間、
「適度なズレの中で生きている」
ということなのだろう。
できれば、
行きすぎたズレ、
喧嘩や不毛なズレよりは、
みんなでいい感じにズレたい。
「へぇー」とか、
「おー!」とか
「スッゲェ〜!」とか、
良い感じでズレて喜び合いたいよね。
人々は街角で、
会議室で、通りのカフェで。
家族や恋人や、墓の前でも、
ズレている。
そのズレは、
楽しいか、
キレイか、
グッとくるか、
笑えるか、
愛か、
平和か、
隣の客は、よく柿食う、客か
それとも
トナリノキャクハ ヨクナシクウ モモカ
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