自他、内外、入出力。

 神即自然ならぬ自然即神、そこで、空気即神。
 社会はなぜ脱中心化されて真偽が不定な構造なのに、自然はなぜ明らかな秩序があるように感じられるのか?恐らくそれは、私の意識に由来するものだろう。というのは、社会に影響を与えうると思うと社会は途端に真偽不定の構造となる。そして、自然は違う。すなわち、自然の秩序も可変的だと受け止めてそれを為しているような制作者にとって、自然に対して真偽という基準は妥当しない。その先に思考を進めると、「神」という語が私を邪魔しているように感じられた。よって「神」という語を、今回この先は捨ててみる。
 自然に外部はあるか?外部と言うからには、なにか分節と対置の操作がはたらいている。絶対的に無関係な何かなどどうだっていい。しかし一方通行ということも考えられる。すなわち、応答関係なのではなく、例えば一方的なはたらきかけはあるがわれわれは微塵のまなざしすら感じないようなはたらき。はたらきの一方通行においては、それはわれわれからみれば、入力だけがある事態である。それは、言葉を当てると「不可思議」くらいに言い得ようか。由来不明の流入である。…私という現象は渦中の諸渦の一つの渦なのかもしれない。そこにおいてだいたい起きていることは由来不明の流入である。そうすると同時に、私にとっての出力は、他者にとって由来不明の流入になるのかもしれない。すなわち、この渦と呼んだ円環の分節と対置こそが自己と他者の分節と対置の正体だろう。私は私の内部を知らない。私は私の外部を知らない。しかし恐らく、自己を忘れたときに立ち現れる何某かこそが、自己にほかならないのかもしれない。『モナドロジー』の14で「意識されない表象」として語られているのはこの事態であろう。だから、その滅却のときにおいてもはや私でない私はeverythingの中で私であることを毀損せずにeverythingとの調和を確証するのかもしれない。

2023年5月18日


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