目醒めー記憶喪失、歩行不能、嚥下障害を経て/SLE(全身性エリテマトーデス)という難病とともに生きる(33)

<2018年5月>

 再燃によって13kg痩せてしまった身体を自宅療養の3ヶ月弱の間に元通り以上に戻した私は、クローゼットからお気に入りの極細のスーツを取り出した。ステロイドの副作用という言い訳だけでは済まされない位にたっぷり贅肉を蓄えてしまったので、何とか手足を通したがボタンを留めることは最早不可能だった。

 職場に復帰する前日、本社で直属の上司と面談を行った。半年近くも離れていた会社を前にした時、目頭が熱くなった。

 上司と会う直前までは、脳炎にまで発展して記憶障害やリハビリを経てきた事をわざわざ言う必要はないのではないか、既に医者から後遺症は無いと言われているのだしと、そうも思っていた。だが、上司を目の前にした時、私は正直な気持ちを話す気になった。

「脳に炎症が起きて、実はまだ名前を思い出せない人もいます」

 私は、上司と連絡を取り合っていた時期から後に最悪の状況になった顛末を簡単に説明した。小学1年生のドリルから最終的には大人の一般教養に関する教材までやってきた事などを。

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 私の未来の見通しがハッキリするまで家族が会社には殆ど詳細を伝えていなかった為、上司は衝撃を受けた様だった。それでも就業規則通りに私に長期療養を保証してくれて、ポストも空けたままにしてくれていた会社と上司の事を考え、その場には居ない同僚幹部たちの顔を思い浮かべて、私は誠意を見せて包み隠さず話すのが筋だと思ったのだった。
 リハビリは順調に終わって、実際思い出した字や名前は忘れることもないし、自分なりに脳障害の影響は無い筈だと思っていると説明した。だが、あれだけの事があって、自分のパフォーマンスが以前通りかはやってみなければ分からないし、だからこそ、そこは客観的に評価される方が正しいと考えた。

「他の皆と同じ様に、公平に客観的に私のパフォーマンスをチェックして欲しい」

 ダメだったらいつでも降格してもらって構わない、そう自ら切り出すと、上司もかえってありがたいと思ってくれている様だった。最終的に、私の一部のタスクであった本社業務は引き継いでくれた同僚がそのまま継続する事になり、私は自分の管轄エリアに専念することとなった。そして、復帰後1ヶ月程は半日から1日に徐々に時間を延ばし、体調や体力を考慮しながら出社日も増やしていくこととした。そして、計画通り1ヶ月後には本稼働して海外から来たVIPに対するプレゼンを無事にこなし、正真正銘、元通りの実力を証明した。

 こうして私は、晴れて元の居場所に戻ることに成功する事ができたのだが、自分の職場まで運転していた朝、iPhoneを接続したカーステレオからある曲が流れてきた。

無駄なことだと思いながらも それでもやるのよ
意味がないさと言われながらも それでも歌うの
理由などいらない
少しだけ大事な物があれば それだけで

日々は動き 今が生まれる
暗い部屋でも 進む進む
僕はそこでずっと歌っているさ
へたな声を上げて

出展:日常 / 作詞作曲 星野源

 星野源の名作と言うべきアルバム、エピソードに収録されている素朴なフォーク調の曲だが、その歌詞に、この約半年の間に起きた信じ難い出来事や、長いトンネルを抜けて取り戻した日常、ひときわ重要な価値を見出した家族という存在、これからまた一日一日歩んでいける今を思い、涙が止まらなかった。また、自分の働きを期待してくれる場所があり、家族の支えとなり、家族に支えられる喜びを心の底から感じた。

 仕事から帰って、そういった気持ちを妻に話すと、妻もやはりこの経験を経て、家族で穏やかに過ごす時間が増えたことや皆で笑えることが本当に幸せだと感じると言った。それこそ、ほんの半年前の出来事が全くの嘘みたいで時々怖くなるとも語った。 とにかく世間の波に飲まれずに、私や子供達との日々を一番に大事にしていきたいとも。

「当たり前の日常が、実は一番の奇跡。それ以上望むものはないと思う」

 妻と全く同じことを思った私自身、一体あの半年は何だったのか、それから2年が過ぎた今も時々思う。特に年越しの時期になると、あの病床で苦悩していたことや当時周りの人がしてくれた厚意を振り返る。

 そして、私は当時、妻に対してこんな話もした。

 高次脳機能障害はそもそも、通例100%元通りに治るという事は無いとされるものなのだと思うが、私の場合は、医学の進歩、薬により持ちこたえたのは勿論、妻や家族、友達との結び付きへの執着が、この奇跡に繋がったのではないかと真剣に思う。だが、最大の要因としては、やはり前述した様に、”役割”が関係したのではないかと思っている。 
 自分には家族を養い、部下を率いて仕事をリードし、活躍する場があった。それこそが人間の、もっと言えば、生き物全般の生きる意味を支える重要なファクターなのではないかと感じた。裏を返せば、現実的には身体が機能を失う限界はあるにせよ、こと脳や精神に関して言えば、"役割"を持つ以上、完全に衰える事は無いのではないかと考えた。それこそ何か"役割"がある事で、衰えた部分が回復する事もきっとあって。その前に"役割"を失う事自体が、脳の老化と因果関係が有るのではないかとさえも思ったのだ。
 私が地道にリハビリの長い道程を完結出来たのも、正にこの"役割"を果たす為であり、自分が回復する事を願い続けてくれた友達の輪に戻る為、 自然と全ての事を前向きに受け入れられたからなのだ。
 そうしたフラットな気持ちのおかげもあって、妻が子供や自分の将来を考えて私自身の介護に自信が持てなかった事も、ごく自然な事だと感じられた。私の努力の結晶である自宅や愛車を売却しかけた事も当然の事だと感じた。寧ろ、自分がそこまで妻を追い詰めてしまったのかと、心苦しく思って泣けてきた。

 この手記の編集を通して、多くの記録をこの目で客観的に振り返る事になり、その時、その場所には存在しなかった”私”の事で、皆が悲しみ、悩み、励まし合って、日々を耐えて過ごしていたことを知り、その気持ちを想像した。そんな私が何も迷う必要など無かったのだ。ただ自分は為すべき事を為すのだという決意のもと、日々前進し、その結果、全てを元に戻し、一層日々を大切に生きる事が出来る様になった。

 回想して語り続けた私に、妻はこう言った。

「すっかり元通りだね。おかえり」

 話をしなくなった。退院して自宅に戻った私に妻はそう言ったが、この時、本当の意味で私が帰ってきたことを実感したのだと思う。

 私たちは、それまでごく当たり前と思って来た普通の暮らしを突如失う恐怖を味わい、また、現実の生活と心の間で生まれる葛藤と闘い、再び幸せな暮らしを取り戻す事が出来た。
 14歳の発病と40歳の再燃で、二度も命を繋ぎとめられた事に感謝して生きていかなければ、そう話すと、妻は再び口を開き、こうも言った。

「三度だよ。皆この世に生まれて来た事自体が、まず一番目の奇跡なんだから」

 生まれてきただけで奇跡、その母親ならではの感覚に、私は感服した。一人の人間として、この世に生を受けて生きる喜びを感じられている事、その機会を存分に得られた事を心から嬉しく思う。

〜完〜

ありがとうございます!この様な情報を真に必要とされている方に届けて頂ければ幸いです。