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久松五勇士

南のはての真の『日本人』

    皆さんは
                     久松五勇士
という話をご存知だろうか。

    私は、つい最近この話をネット上で知ったのであるが、過去の日本人が、いかに日本を思い、また勇敢に生きたかを感動をもって知ったので、ここで紹介したいと思う。

    この物語は、明治時代に日本がロシアと戦った、いわゆる日露戦争の時におこったもので、その舞台は、日本のほぼ最南端あたりに位置する、沖縄の宮古島や石垣島である。

宮古島と石垣島の位置

    1905年5月、ロシア海軍の誇る、当時世界最強と言われていていたバルチック艦隊は、半年以上にわたる航海を経て、日本近海に接近していた。
    その目的は、日本の連合艦隊と戦い、戦争の雌雄を決するためで、日本側は、それまで把握していたその所在をフィリピン方面の海域で見失っていた。

    このため、軍首脳部は、全国の警察機関を通じ、日本近海で操業する漁民にたいして
         ロシア海軍と思われる艦隊を発見
         した場合は、直ちに通報するよう
要請までしていた。
  現代のように、レーダーやSNSなどのある時代と違い、国民の眼や風聞が頼りであり、まさに国民を総動員して、血眼になってバルチック艦隊を探していたのである。

    そのような緊迫した情勢の折り、5月22日午前10時ころ、那覇から宮古島に帆船で向かっていた、粟国村の青年である奥浜牛(おくはまうし)ら6名は、奇しくも宮古島沖でバルチック艦隊(その数およそ40隻)に遭遇した。

   当時このような、敵国の船と思われる艦船を発見した場合は、情報の漏洩を防ぐために、軍民問わずその艦船を拿捕したり、最悪撃沈したりするのが常であったらしいが、この時なぜかバルチック艦隊は、そのような行動に出ていない。
(事実、バルチック艦隊は、イギリス近くの海域を通過する際に、近くを通ったイギリスの漁船を日本の艦船と誤認して撃沈している。)
    これは、奥浜らの舟を中国の舟と勘違いしたという説もあるようだが、いずれにせよ日本側にとっては幸運であった。

    難を逃れた奥浜らは、宮古島に着くと、直ちに宮古島警察所に、この重大な機密情報を報告した。

   ところが、当時の宮古島には電信設備がなく、この重大情報を即座に沖縄本島に伝える術がなかったのである。

     そこで、最寄りの電信局がある石垣島に早舟を出すことになり、その漕ぎ手として地元の若い漁師たちのなかから、屈強な若者5名が選ばれたが、この5人が、後に
             久松の五勇士
と呼ばれることになる男たちである。

   しかし石垣島までの距離は、約170キロもあり、その頃の海上は、地元の漁師たちが「バウフの節」と呼んで恐れる荒れる時期で、そこに「サバニ」と呼ばれる全長9メートル足らずの小さな丸木舟で漕ぎ出すことは、まさに命がけの決死行であった。

    この5人は
               垣花 善(かきか  よし)
               垣花 清(かきか  きよ、善の弟)
               与那覇 松(よなは  まつ)
               与那覇 蒲(よなは  かま、松の弟)
               与那覇 蒲(上記の蒲とは同姓同名
                                   の別人)
であったが、垣花善をリーダーとする一行の5人は、翌26日早朝に宮古島を出発し、約14時間あまりサバニを漕ぎ続けて石垣島にたどり着いた。
   そしてさらに、そこからおよそ5時間走って八重山電信局に飛び込み、そこでようやくパルチック艦隊発見の急報がなされたものである。

石垣島へ向かう五勇士

   しかし、海軍首脳部が受け取ったバルチック艦隊発見の第一報は、信濃丸という艦船が発した「敵艦見ゆ」というもので、それは5人の報告よりも早かったため、はるばる石垣島からもたらされた情報は、残念ながら、直接軍事作戦上役に立つことはなかったそうだ。

   その後行われた日本の連合艦隊とバルチック艦隊との日本海海戦は、日本側の大勝に終わったが、この5人の壮挙は、村人の語り草の域を出ずに、歴史の片隅に埋もれていくかに思われた。

   ところが、大正時代に入り、沖縄県の師範学校に着任した稲垣国三郎という教師が、地元の教師からこの話を聞き知り、いたく感銘を受けた。
   そして、「この壮挙を満天下に知らしめて彼らの労をねぎらってやりたい」と決意し、その流布のために奔走した結果、教科書にもその話が掲載されるなど、一躍全国的に知られるようになったようだ。

   その後、日露戦争30周年にあたる1935年には、5人に対する顕彰運動が大々的に盛り上がり、「五勇士」が漕いだサバニは、日本海軍へ献納され、五人は、当時の海軍大臣名で表彰もされている。

表彰当時の五勇士

    この話は、その頃、つまり日本が明治維新を成し遂げ、日清戦争、日露戦争に勝利して国力をつけ、アジアのなかで唯一先進国として発展して行く過程においてなされており、国威発揚の一躍を担うものとして利用された一面があることは否めない。

  しかし当時は、このようなほぼ日本の最南端に住む、貧しい(失礼にあたるかもしれないが)漁民でさえ、国難にあたって命がけの行動を取るほどの愛国心を持っていたというのは、まぎれもない事実なのだ。

  国を思う強い気持ちがなければ、170キロも離れた他の島へ、休むことなく小さな小舟で漕ぎ続けるということはできないはずだ。

    繰り返しになるが、これは戦争に直接関与した軍人の栄誉談ではなく、一漁民の取った行動である。
   愛国心を持つということは、そこに暮らす人々の平穏を願う、すなわち平和を願うという気持ちであり、何も軍人だけが持たなければならないというものではない。
   当時は、愛国心を持つということは、当たり前のことだったのだ。
   むしろ、「愛国心」という言葉に過敏に反応する現代の日本人が異質であり、世界的な常識からもかけ離れているように思えてならない。

   今、世界的に見ても、日本の周辺海域においても、周辺の安全保障環境は大きく揺らいでおり、国はその対応に大きく舵を切っている。

   我々国民も、そろそろ戦後の平和念仏から目覚めて、「愛国心イコール右翼」などという馬鹿げたプロパガンダに惑わされることなく、この五勇士のような正しい愛国心を持って、現実をしっかり見つめ直す時なのではないか。

  最後に、今一度冒頭の写真を見ていただきたい。
  この写真は、五勇士の偉業を讃える顕彰碑であるが、五人をモチーフした白い柱の上にあるのは、彼らが漕いだサバニと呼ばれる小舟である。
   このような舟で、170キロ余りの海上を漕ぎ続け、さらに上陸してから5時間も走った彼らの気力と体力は、トライアスロン競技をはるかに越えるものがなければなしえず、常人では想像もつかないものであるが、これを支えたのは、ひとえに真の愛国心であることを、最後に今一度申し添えたい。














  


    


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