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秋分の日に思うこと

秋分の日

別名、お彼岸ともいう。
過ごし方は、ひとそれぞれだと思う。
行楽に行くもよし。
趣味に興ずるもよし。
自宅でゆっくりするもよし。
また、仕事で休めない方もいらっしゃると思う。

   私は、定年後は、毎年必ず墓参りに行くことにしている。

    2年前までは、妻の両親の墓参りだけだったが、昨年母が亡くなり、そこにも行くようになった。

    今朝も、早朝に、自宅から車で5分ほどのところにある母が眠る墓地に行った。

    墓の掃除をして、備えている花や湯飲みの水をかえ、線香をたて、手を合わせる。

   わずかな時間ではあるが、涼しげな朝の空気や穏やかな木々のざわめきになぜか心が満たされてゆき、近くに母がいるような気がする。

   そして、必ず墓碑銘に手をあててしまう。

  骨になったとはいえ、そこに母がいるという気持ちがあるからだろう。

  日本では、遺骨に対する思い入れが強く、今でも、先の大戦で散華されたまま、国内外に眠ったままの英霊の遺骨収集団のニュースを耳にすることがあるほどである。

   しかし、欧米では、どうも遺骨自体に対する思い入れというものはあまりないようで、むしろ遺影や故人が大切にしていた物を、遺品として大事にするようだ。

   宗教や文化の違いからくるものかもしれないが、日本人であれば、遺骨が納められたお墓やお寺にお参りすることは、気持ちが安らぐものだ。

   これも故人のおかげだろう。

   また不思議と、墓参りに行った時や、その行き帰りに、普段没交渉になっている親族や知人に会ったりすることがある。

   そのような巡り合わせをさせてくれるのも、故人のおかげだろう。

   それらが、死者の役割なのかもしれない。

   ひと昔はやった歌に

            私のお墓の前で泣かないでください

            そこに私はいません

            眠ってなんかいません

            千の風になって

            あの大きな空を吹きわたっています

という歌詞の曲があった。

   この歌は、確かに大切な人を亡くした時には、心救われる名曲だと思うが、お墓参りの時だけは、そこにいるような気がしてならない。

   いや、いて欲しい・・・

   彼岸の日だけは、大きな空を飛び回ることなく、墓参りに来るかもしれないこの世の親族のために、墓に帰って、その訪れを待っていて欲しい。

    必ず来るから・・・

    いやむしろ、彼岸の入りは、故人のほうも楽しみにしているのかもしれない。

    今年も来てくれるかなと・・・

    誰が来てくれるかなと・・・

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