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漕日#7|「向かい風=前進」の法則

 午前6時34分、嫌な夢で目が覚めた。眠りが浅かったらしい。

 夢はこんな感じだった。何かの仕事の帰り道、サーモン養殖会社に勤務するフランシスコが運転するピックアップトラックで霧がかった谷を走っていた。眼下に広がる森は、ペルーのヴィニクンカ山のように七色に染まっていたが、鮮やかというより暗い虹色で、不思議な森だった。

 突然、道路がグワっと波打ちピックアップトラックが宙を舞った。それから半回転して着地。ひっくり返った車体が、同乗していたパブロの足を潰していた。助手席に乗っていた女はパニックに陥っていたが、何とか3人でパブロを救出した。ほんの数秒前までは、フランシスコの食生活がテイクアウトに頼りっきりだとか談笑しながら、森の色彩変化をうっとり眺めつつ写真に収めようとしていたところだった。ところが事態は一瞬で変わった。人を魅了させていた虹色の森は、黒くてジメッとした冷たい森になった。

 そういえば、前回の旅もそうだった。「探検者の湾」と名付けられた場所で、食料が尽きて進むべき水路も見出せなかったあの日、風や波が発信する情報はほとんど意味がなくなって、漠然とした不安だけが唯一感じ得ることだった。今日は慎重に漕ごう。とにかく、今日こそプユワピ水道を抜けたい。

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 午前9時、ビニール小屋がある河口を出発。海は穏やか。パドルを漕いだ分だけカヤックが進む、理想的な朝だった。コルモラン(ウミウ)は相変わらず支離滅裂な方向に向かってヒュンヒュンとせわしなく羽ばき、近くを通り過ぎるときだけチラッとこちらの様子を伺った。カヤックの背後から近づいてきた茶色の海鳥は、振り返った途端にバサバサと慌てて方向転換。トドはヒレだけ水面から出して、二度寝を楽しんでいるようだった。そういう、理想的な朝だった。

 しばらく漕ぐと、前方左手に見覚えのある岩が現れた。午後1時。地衣類がつくる褐色の帯を纏っている。この岩がプユワピ水道の終わりを告げるランドマークだ。3年前とほとんど変わらない。ただここからは一旦、前回と別のルート。プユワピ水道を抜けて南西に見える、平たいÑancul(ニャンクル)島が今日の目的地だった。

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 午後の時間はひどく長く感じられた。カヤックがなかなか思うように進まない。トドの二度寝を邪魔したり、ペンギンの群や島々の稜線の美しさに見惚れていたからではない。風は西南西からゆるやかに吹いて、ほぼ向かい風。周りの木々を見ても、日頃この海域で南西の強風が吹いていることが見て取れる。風は少し休憩すると収まるが、漕ぎ始めると途端に吹き始めるような気がした。こんな経験は初めてじゃないが、恐らくただの錯覚だろう。釣りをし始めたら土砂降りになったり、カッパを脱いだ途端に雨が再びぱらついたり、そんな記憶ばっかりが蓄積されてるせいだ。

ーーそうだ、俺がめちゃくちゃ早く漕いでるから風を感じるんだ。

 途中からは無理やりポジティブに考えながら漕いだ。これからは「向かい風=前進」という法則を支えにすることで、前向きに生きていく所存。さりとて島には近づかず。安易に到着時刻と予定していた午後3時の時点で島影は遠く、午後4時になっても着かない。どうやら、原因は風だけではなく、潮にもあったらしい。

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 潮の動きは肌で感じられないから分かりにくい。ときには風よりやっかいで、見誤れば目的地にも近づけない。ただの筋トレになる。ニャンクルニャイさ、なんてアホみたいに筋トレしていた最中、潮の流れに気付いたときにはすでにニャンクル島一歩手前の小島に着く頃だった。筋力も気力も潮に奪われていたところだったので、その日は小島で一泊することにした。

 午後5時ごろ浜に上陸すると、地面から水柱がピューピュー吹き出た。Almeja(アルメハ、ハマグリのこと)がいるな。こいつも貝毒の可能性があるけど、構わず10個ほど採った。控えめにしている方だ。大きいものだと握りこぶし大で、かなり食いごたえがある。この控えめというのは、自分の中ではすごく大事で、きっと積極的に食いまくるのと、控えめに慎ましく頂くのでは、お天道様の心象も変わってくるに違いない。そうなるとチリの過去30年における23件という貝毒の死亡事例に、ぼくが一件追加する確率もきっと小さくなるだろうと、都合よく考えていた。

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 春から夏にかけて、パタゴニアの一日は長い。10月23日の日の出は午前6時42分、日の入りは午後8時29分だった。日があるうちに釣りを試したけど、この日も釣果はゼロ。その代わりに良いサイズのウニが、引き潮も手伝ってよく採れた。ドライスーツのまま海に入り、ウニを蹴り上げる技を「ウニリフティング」と名付けバシバシ採った。ただ、調子に乗りすぎてドライスーツの股間部にあるチャックを開けたまま海に入ってしまい、あっという間に浸水。どうやらウニリフティングがお天道様の心象を悪くしたらしい。さらには、ハマグリの食べ過ぎだろう、下痢も引き起こし、腹痛さえなかったものの不意にもよおすものだから忙しい夜になった。それでも、流木で炊いたウニ飯は最高に美味かった。

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