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社会で求められる「多様性」を生態学的な「多様性」で考える

 すこし前から、多様性という言葉が頻繁に使われるようになった。一般世間では、みんなちがってみんないい、というニュアンスで使われることが多いように感じる。生態学を学んだ身からすると、重要性が叫ばれる社会的な「多様性」には、少し違和感がある。

 生態学で多様性というと、3つの区分がある。「遺伝子の多様性」「種の多様性」「生態系の多様性」。「遺伝子の多様性」は、同一の種の中でも遺伝子が多様な方が、それだけ絶滅のリスクが低かったりするのでいいよね、という話。例えば、特定の伝染病に弱い遺伝子ばかりの集団は、その伝染病が流行した時に全滅する可能性が高い。ヒトに関していっても、瞳の色や髪質、肌の色で遺伝子がいかに多様かが分かる。

 次に「種の多様性」。これは色々な種がいる、ということ。さまざまな生命が息づく熱帯は、種の多様度が高い。目を閉じれば、多種多様な生き物が発する音が耳に入ってくる。社会的にいわれる多様性は、この「種の多様性」に近い気がする。理由は簡単で、「同じヒトだけど君とは意見が合わない」なんて思うことはないから。本質的には「遺伝子の多様性」の話をしているかもしれないが、ニュアンスとしては「種の多様性」に近い言葉として扱われていると思う。

 最後に「生態系の多様性」。熱帯には熱帯の生態系がある。熱帯に白クマはいない。極地には極地の生態系があるから。つまり、たくさんの生態系があった方が、結果として「種の多様性」にもつながる。ここが実は一番大事なのではないかと思うし、世間でいわれる多様性に対する違和感にもつながっている。

 極地は寒くて静かだ。熱帯と違って種の多様度は低い。極地の住人は、騒がしさを嫌うかもしれない。いうまでもなく、白クマとオラウータンは分かり合えない。今の世の中は、熱帯的だと思う。「多様な価値観があっていい」「多様性を認め合うべきだ」という意見は、熱帯の住人には通じるかもしれないが、極地の住人には響かない。響かないが、社会が温暖化して極地の氷がとけ、生息地がなくなり、最後には社会全体が熱帯になってしまったら、白クマは死ぬしかない。

 種の多様性が大事だからこそ、生態系の多様性を確保しなくてはならない。社会全体が熱帯になるのは生きづらいな、と思う。言語(広い意味で。あるいは価値観といってもいい)が違う、自分と異なる生態系については、あまりとやかく言わず、いい距離感を保って付き合っていたい。

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