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デザインの力で地域医療の在り方を変える

医療デザイン Key Person Interview
医療法人社団 守成会 理事長 廣瀬憲一

幾度の困難にぶち当たりながらも、父がつくった病院を立て直した廣瀬憲一。自分の病院だけにとどまらず、地域の医療をより良くしようと向き合い続けてきた。そんな廣瀬の活動を後押ししたのは、デザインの力だった。病院の理念をビジュアル化し、病院を仲間の手に委ねたことで、廣瀬の活動は次のフェーズに入っている。デザインの力でいち病院だけでなく、地域社会の医療の在り方を変えていきたい、理想と現実の狭間で戦い続ける廣瀬の想いを聞いた。

20代、予想外の「望まない承継」

廣瀬憲一の両親が神奈川県相模原市に広瀬病院を作ったのは、廣瀬が生まれてすぐのことだった。病院と共に育ったためか、小学生のころには医者を志すようになった。

ーー医者を志したきっかけは何だったのですか?20代で病院を継いだと聞きましたが。

小学4年生くらいには医者になろうと思っていましたね。骨折して自分の病院の待合室に座っているとき、患者さんのおばあちゃん2人が院長である父のことを褒めていて、父の姿が純粋にかっこいいなって思ったんです。

その後、浜松医大に進学して医者になりました。研修医が終わったばかりのころだと思うんですけど、アルコール依存症だった父の状態が悪くなってしまい、病院が立ち行かなくなって。29歳のときに、急きょ両親の病院に戻ることになったんです。

廃業しようとも思いましたが、悩んだ結果、立て直すことを選びました。でも、預かる患者の命や職員の家族の命とか、とにかくプレッシャーがすごくて自分が鬱になってしまって…。
このままだと自分が潰れると思ってわずか半年でギブアップして大学に戻りました。

廣瀬が去ってからも、広瀬病院は生き残っていた。大学に戻った廣瀬は自身の修養に努め、これが結果的に再びカムバックを果たすための充電期間となった。

先代の院長である父(手前正面)と廣瀬憲一先生(右奥)と弟の廣瀨剛先生(左奥)

わずか半年で大学へ、そして再登板

病院の立て直しへと舵を切った廣瀬。改革を断行し、さまざまな人の助けを借り、がむしゃらにやっていくうちに、病院は桁違いに大きくなった。しかしその後またもや訪れたのは、大きな壁だった。

ーー再び戻るときはどのような状況だったのですか?

大学にいる間も先代の経営幹部たちがなんとか支えてくれていて、病院はなんとか生き残ったんです。母の眼科が評判だったというのもありますし。

大学ではさまざまな経験も積んで、必要な資格など全部取らせていただきました。32歳になり、「さぁ、どうしようかな」ってときに、また広瀬病院に戻る話が回ってきたんです。
「いよいよ病院がやばくなってきた」と聞いて、今度は「いっちょやったるか!」という感じでしたね。1回目に戻ったときは嫌で嫌で仕方なかったんですけど。

幼い頃の廣瀬憲一先生と父

もう逃げられないから向き合ってやっていくことを覚悟しました。
それで「内科を頑張ろう」とか、何名かの医師を解雇したり、かなり強引に変えようとしました。結果、たくさんのスタッフが辞めていきましたね。

ーー潮目が変わったと感じるタイミングがあったのですね。

辞めるスタッフはたくさんいたんですが、あるときから人が集まりはじめたんです。
その中でも、病院を継いでから1年後くらいに看護部長と医療連携室の室長が何人か新たなスタッフを連れてきてくれたときはすごく勇気をもらいました。

とにかく何ができるかを真剣に考えましたね。連携する病院の医者を改札で出待ちして会食したりね。そしたら「一緒に頑張ろう」ってなってくれて、そのときの部下のうちの一人が、現在の広瀬病院の院長だったりします。
がむしゃらに頑張ったことが実を結んでいく時期でしたね。

ーー1番大変だったのはやはり立て直すときでしたか。

最初ももちろん大変だったんですけど、実は一番大変だったのが2019年でした。経営が伸び悩んでいた時期で、そういうときは様々なことが重なるものですよね。自分の家族が体調不良になったり、病院の状況も壁にぶつかったりで、焦る気持ちが募って心の重荷にもなってしまいました。人間関係もうまくいかなくなるものですから、スタッフもたくさん辞めて、いくつかの部署が維持できなくなったので、一旦病床を閉じた時期もありました。

さらなる壁にも負けず、現在は病院の状況もかなりよくなっている。これを乗り越えるひとつの光となったのが「医療デザイン」との出会いだった。

デザインの力で言語化、ビジュアル化を実現

廣瀬と桑畑代表との初めての出会いから数年後「医療デザイン」という言葉に魅力を感じて、2人は再び繋がった。この出会いが廣瀬の活動をさらに後押しすることとなる。廣瀬は病院の院長をやめ、理事長として未来に向かう。

ーー「医療デザイン」の面白さとは何でしょう?

「デザイン」という言葉がすごく好きなんですよね。病院経営そのものもデザインだと考えています。「地域の医療がこういう形で回っていけば、そこに自分たちも入っていけるぞ」ってビジョンを描いているので、「大きなデザイン画の一部に自分たちをはめ込む」っていう、ちょっと俯瞰した視点で見ているんです。病院単体で見るのではなく、地域というもっと大きな枠組みの中で考えているんですよね。それが面白いです。

広瀬病院のウェブサイトより

ーー「医療デザイン」と出会って変化はありましたか?

一番の変化は、法人のマークをビジュアル化したことですね。今まで全部自分でやっていたところから、院長をやめて一歩引くっていうときに、なにかひとつだけコアになるものは伝えたいと思ったんですよ。それで桑畑代表に相談したんです。

そしたら「廣瀬先生はどんな想いで頑張っているのですか?」と聞かれました。

この病院は自分が育った家であり、両親が苦労してやってきた病院。いろいろありましたが、両親の行動や言葉の断片などはやっぱり大事なんです。
だけど他人に渡すときにはその記憶は当然ないじゃないですか。だから、桑畑代表に「親に対する敬愛や畏怖とかそういった想いがある」って伝えたら「では、敬愛じゃないですか?」って言ってくれて。

それを病院のマークにして「敬愛を、かたちに。」というコピーも作ったんです。自分のコアに気づかせてくださったことやこうしてビジュアル化できて、周りに伝えられるようになって、とても感謝していますよ。


医療法人社団 守成会のシンボルマーク(Design : Takeru Kuwahata)

敬愛を、かたちに。
守成会の守成とは、
「創業者のあとを受け継いで、その事業を固め守ること。」
を意味します。
私たち守成会では、創業者はもちろん、
同僚、患者さん、業者さん、そして地域の人。
全ての人たちに尊敬と愛情を持って関わります。
コミュニティをあらわす輪の中に存在する
上下の2つの人をあらわすシンボルは、
相手の人生を輝かせるために
土台として下からしっかりと支える
医療人としての誇りと敬愛を、かたちにしたものです。

Copy Writing : Takeru Kuwahata

ーーいろいろな活動が前に進み始めているのですね。

そうですね、課題だと思っていたことが少しずつクリアできてきました。「広瀬病院はよくなったけど、廣瀬先生が倒れちゃったらおしまいだよね」ってよく言われてたんです。だから今はいろんな先生の力を借りています。先生方は質の確保に留まらず、自分たちで向上心を持って進んでくれていますよ。

これまで課題だと言われていた「自分が抱えているものを手放すこと」ができたんですよね。組織の理念もできたし、大事にしてほしいことも今まで以上に伝えられるようになって、みんなも頑張ってくれています。
自分の手を離れても進化していく病院を見て、寂しいと思っちゃう自分もいますけどね(笑)。これからももがきながら前に進みますよ。

寂しさを抱えながらも前に進み続ける廣瀬には、大きなビジョンがあった。それは地域そして社会全体の医療をより良くすることだ。

広瀬病院のウェブサイトより

これから地域で必要とされる医療の姿を探して

​​廣瀬は現在、地域の病院や介護施設との連携など、包括的な医療の推進に力を入れている。今後のビジョンや地域の医療に必要な取り組みとは何だろうか。

大きな病院と小さな病院はこれから明確に分かれてくると思います。大きな病院は救急医療やいわゆる先進的な医療を行っていくと思います。一方で中小規模の病院は何をするかって言うと、大病院に行きにくい高齢者が、ちょっとしたときにすぐに相談したり入院できる病院になるとか。

現在はそこを支える担い手がまだまだ足りないので、地域で支える必要があります。高齢者の施設も多いので、同時に施設の中でもちゃんと見れるように、看取れるように、病院との連携を強化してレベルを上げていこうって考えています。

これからの中小病院は、その時々の地域が抱えている問題を自分で見つけ出し、解決をしていくことが生き残っていく能力になると語る廣瀬。地域に積極的に関わり、講演会などで病院外の人たちの声を拾いにいく。そうは言っても問題は山積みだ。

ーー実現するのはなかなか難しいものですか?

地域の中では、それぞれの病院の強みがあって、脳外科に強い、お腹の病気に強い、がんや循環器に強いなど、そういう強い機能同士をお互い利用しちゃえばいいと思っているんですけど、それには情報の共有が必要です。

加えて大きな視点で何を目指そうっていう目的の共有も必要で。そこができるかどうかで地域の医療のスムーズさって変わってくると思うんです。もっと田舎なら病院数が少ないからやりやすいけど、相模原はそこまで田舎じゃないんですよね。

先読みは難しいし、ビジョンの理解を共有するのは大変です。だから病院同士で患者さんを奪い合うとか、現場と意見が合わないとか、お互いが理解し合えないことが良くあるのが悩みですね。

現在は高齢者のニーズがあるものの「小さな病院」の役割は今後どうなるか分からない。ゆえに時代のニーズに合わせた対応をしていきたい、と模索の日々だ。

目の前の現実に向き合いながら、病院の経営や地域の医療、患者さんやスタッフなどさまざまな人のために、ひたむきに頑張り続ける姿が胸を打った。廣瀬の中にあるビジョンはまだ道半ばだという。今後も地域の医療のために奔走し、ひとつずつ現実にしていくに違いない。

取材後記

大きなビジョンを持つ廣瀬先生の頭の中には一体何があるのだろう?と考えずにはいられませんでした。様々な壁を乗り越えてきた姿勢には頭が上がりません。病院を他人の手に委ねることで新たな一歩を踏み出しつつも、寂しさを感じていると正直におっしゃっていた姿が印象的でした。
(聞き手:医療デザインライター・藤原友亮)

日本医療デザインセンター桑畑より

廣瀬先生との出会いは、日本医療デザインセンターを立ち上げた2018年からさらに数年遡ります。当時から若き院長先生としての風格を感じましたが、付き合いが長くなり、知れば知るほどどんどん好きになってしまう情熱的で優しい人です。
廣瀬先生の言動に重みを感じるのは、誰よりも学び、働き、そして挑戦し続けている姿を目にしてきたからです。
聡明な方ですが、それ以上に人を情で動かすことができる類稀なるリーダーシップを持った方です。
廣瀬先生と一緒に色々なチャレンジができるだけでも日本医療デザインセンターをつくった価値があったんじゃないかと、思ってしまうくらい自分にとって偉大で大切な先輩です。

廣瀬 憲一さん プロフィール

医療法人社団 守成会理事長
平成14年浜松医科大学医学部卒業。東京医科大学病院を経て平成20年32歳の若さで広瀬病院院長となる。
エアコンを直すことができないほどの経営破綻寸前まで追い込まれながら、地域の中小病院が持つ強みを、歴史に裏打ちされた信頼と病床と捉えて、在宅医療だけでなくより大きなかかりつけ医としての機能を磨くことで、地域内に足場を築く。
これからの更なる高齢化社会を見据え、病院みずからが「入院しない地域」をコンセプトに掲げて活動している。
令和3年1月日本医師会赤ひげ大賞功労賞受賞。また相模原市病院協会理事、北里大学総合診療科非常勤講師として地域内で活動している。


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