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私本位でまとめた日本芸能史(編集中)

下は、2022年2月19日(土)に生配信した「第15回 長唄三味線の音色・笛の魅力『鶴亀』」のお知らせ時のツイート。

最近は専ら #Ado #YOASOBI #長唄 #浪曲 #落語 #琵琶 を聴いていますが、結局のところ「時代時代で流行った大衆芸能」って認識で良いのかしら。

で、いろいろと気になっちゃったので、検索結果(Wikipediaなど)をザックリと時系列でまとめ続けてみる個人的な記録用ページ。芸事意外も含む。適宜更新。

研究が進むと歴史は変わるもの。あくまでも参考として。

神代とされる?「出雲大社」創建

島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[1]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[2]。神社本庁の別表神社[2]。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

紀元前660年(伝・神武天皇元年)?「鹿島神宮」創建

茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

紀元前643年(伝・初代神武天皇18年)?「香取神宮」創建

千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

紀元前91年(崇神天皇7年)?「日吉大社」創建

滋賀県大津市坂本にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。境内大宮橋は日本百名橋に選定されている。
全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いである神猿(まさる)とする。西本宮と東本宮を中心とする400,000m2の境内は国の史跡に指定されている。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている[1]。鳥居は独自の形式で「山王鳥居」(合掌鳥居)と呼ばれる。

紀元前91年(伝・崇神天皇7年)?「石上神宮」創建

奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

紀元前18年(垂仁天皇26年)?「伊勢神宮 内宮」創建

律令祭祀制度の整備が進む天武天皇・持統天皇の時代に、伊勢神宮の祭祀の諸制度や社殿が整備された。天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。また内宮の式年遷宮も持統天皇の時代の690年に開始され、その2年後に外宮の式年遷宮も開始された[40]。
これまでに提示されてきた伊勢神宮創祀年の主な説としては、垂仁朝説、5世紀後半の雄略朝説、6世紀前半の継体もしくは欽明朝説、6世紀後半の用明推古朝説、7世紀後半の天武持統朝説、7世紀末の文武朝説などが挙げられる[28]

478年(雄略天皇22年)?「伊勢神宮 外宮」創建

692年に外宮の式年遷宮も開始された。

612年?「伎楽」(ぎがく)

日本の伝統演劇のひとつ。日本書紀によれば、推古天皇20年(612年)、推古天皇の時代に百済人味摩之(みまし)によって中国南部のから伝えられたという。奈良時代の大仏開眼供養(天平勝宝4年(752年))でも上演され、正倉院には、その時使用されたと思われる伎楽面が残されている。行道という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇で構成され、飛鳥時代から奈良時代に寺院の法会でさかんに上演されたが、次第に衰退した。
752年 奈良の大仏開眼供養で上演

701年(大宝元年)?「雅楽」(ががく)

日本の古典音楽の一つ。5世紀前後から中国大陸、朝鮮半島など(南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される[3]。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった[4]大宝元年の大宝令によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。

709年(和銅2年)?「出雲大神宮」創建

京都府亀岡市にある神社。式内社(名神大社)、丹波国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。
旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。
亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。
「元出雲」の別称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝(後述)に由来する。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。
現在の本殿は重要文化財に指定されている。

712年(和銅5年)『古事記』

現存する日本最古の書物で歴史書であるとされる[2][3]。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し[4]元明天皇に献上されたことで成立する[5]。上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇の記事である。
和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や[9]、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見る上でも重要な素材の宝庫となっている[10][2][11]

720年(養老4年)『日本書紀』

日本に伝存する最古の正史[4]六国史の第一にあたる。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文編年体で記述されている。全30巻。

735年(天平7年)?「散楽」(さんがく)

日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称。日本の諸芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされている。
『続日本書紀』 聖武天皇が観た
752年 奈良の大仏開眼供養で他の芸能と共に奉納
782年 桓武天皇 散学精度廃止

759年(天平宝字3年)〜780年(宝亀11年)?『万葉集』 

奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である[1]
編纂 大友家持(やかもち)?
雑歌
相聞歌
挽歌
身分様々

768年(神護景雲2年)「春日大社」創建

奈良県奈良市春日野町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は「春日社」、神紋は「下がり藤」。
全国に約1,000社ある春日神社の総本社である。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

900年前後?『伊勢物語』

平安時代に成立した日本歌物語[2][3][4][5][6][7][8]。全1巻。平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集[6]で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語[3][5]でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つ[2]ことでも知られる。作者不詳。平安時代のうちの具体的な成立年代も不詳で、初期、西暦900年前後[8]、前期[4][7][8]、(現在のような形になったのが)中期[3][5][6]などの説がある。
竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作[5]。現存する日本の歌物語中最古の作品[8]。同じく歌物語とされるものに『大和物語』があるものの、後世への影響力の大きさでは『伊勢物語』と比べるべくもなく[4]、そういった意味では『伊勢物語』は『源氏物語』と双璧をなしており[4]、これらに『古今和歌集』を加えて[3]同時代の三大文学と見ることもできる。

9世紀から10世紀「催馬楽」(さいばら)

平安時代に隆盛した古代歌謡。元来存在した各地の民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡である[1]管絃楽器笏拍子伴奏しながら歌われた「歌いもの」の一つであり、多くの場合遊宴や祝宴娯楽の際に歌われた[2][3][4]語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などもあるが定かではない。

9世紀後半~10世紀前半頃『竹取物語』

平安時代前期に成立した、現存する日本最古とされている物語。作者不明。成立年も未詳。

905年〜912年?『古今和歌集』

平安時代勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの[注 1]略称を『古今集』(こきんしゅう)という。
日本最初?の勅撰和歌集
撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人?

992年?〜998年「田楽」

平安時代中期に成立した日本伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した[1]」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。
大和猿楽
狂言

1001年(長保3年)?『枕草子』

平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(1001年)にはほぼ完成したとされている。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』『清少納言抄』などとも称された。また日本三大随筆の一つである。

1008年(寛弘5年)『源氏物語』

平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説
文献初出は1008年寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である[注 1]。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた[1]

1013年(長和2年)『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)

平安時代中期の歌人公卿藤原公任藤原北家小野宮流)が漢詩漢文和歌を集めた、朗詠のための詩文集である。長和2年(1013年)頃に成立した。『倭漢朗詠集』あるいは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる[1]
もともとは藤原道長の娘威子入内の際の引き出物の屏風絵に添える歌として撰集され、のちに公任の娘が藤原教通(道長五男)と婚姻を結ぶ際の引き出物として、朗詠に適した和漢の詩文を達筆で知られる藤原行成が清書し、それを冊子として装幀されたものといわれている[2]

1060年(康平3年)頃?『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)

平安時代中頃に書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。作者13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。『蜻蛉日記』『紫式部日記』などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一に数えられる[1]江戸時代には広く流通して読まれた。

1120年代以降『今昔物語集』

平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。
成立年、作者不明。11世紀後半に起こった大規模な戦乱である前九年の役、後三年の役に関する説話を収録しようとした形跡が見られる。

1136年?「春日若宮おん祭」

奈良県奈良市の春日大社の摂社若宮神社の祭祀として、奈良公園周辺で毎年12月17日を中心に数日に渡って行われる祭礼である[1]。大和一国を挙げて盛大に執り行われ、1136年に関白藤原忠通によって始められたと伝来されている。870有余年にわたり何回もの中止を経て再開され開催されている[2]。おん祭で奉納される猿楽(能)や雅楽、神楽や舞楽などの芸能は中世以前の芸能の継承・保存に大きな役割を果たしている。これらの奉納芸能は「春日若宮おん祭の神事芸能」として1979年(昭和54年)に国の重要無形民俗文化財に指定されている[3]。

1180年前後『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)

平安時代末期に編まれた歌謡集。今様歌謡の集成。編者は後白河法皇治承年間(1180年前後)の作。
後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした。また、歌謡の歴史などについて、別に口伝集十巻を残した。書名の「梁塵」は、名人の歌で梁の塵も動いたという故事より、すぐれた歌のこと。

1201年(建仁元年)〜1216年(建保4年)『新古今和歌集』

鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾る。略称は『新古今集』(しんこきんしゅう)。

1212年(建暦2年)~1221年(承久3年)『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)

鎌倉時代前期(建暦2年(1212年)~承久3年(1221年))成立と推定される[1]日本説話物語集である。『今昔物語集』と並んで説話文学の傑作とされる[大言壮語的][誰?]。編著者は未詳。
仏教説話、世俗説話、民間伝承。民間伝承には、「わらしべ長者」「雀の恩返し」「こぶとりじいさん」などが収められている。

13世紀半ば?『平治物語』(へいじものがたり)

作者不詳。平治元年(1159年)、後白河上皇方最大の武力勢力であった平清盛熊野参詣に出かけた隙を狙って、かねてから藤原通憲(信西)と後白河の寵愛をめぐって権力争いを起こしていた藤原信頼が、保元の乱での賞与などで平家の圧迫に不満を覚えていた源義朝を語らって挙兵する。上皇を大内裏で監禁、通憲を殺害し一度は権勢を握るものの、熊野から引き返した平清盛に敗れ、信頼は処刑、義朝も暗殺される。以降、平家政権の全盛や没落、鎌倉幕府の成立などまでを描いた諸本も多い。『保元物語』や『平家物語』と同様、和漢混淆文で叙述されている。諸本によって内容に異同は大きいが、悪源太義平(源義平)の武勇譚や、源義経の母である常盤御前(常葉とも)が、老いた母のために清盛のもとへと赴く哀憐の話が中心を占めている。『保元物語』と同様に源氏に対して同情的な内容であるのが特徴である。

1297年「申楽・猿楽」(さるがく)

室町時代に成立した日本伝統芸能江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである[1]
『普通唱導集』 翁申楽(猿楽)について言及

1300年『吾妻鑑』『東鑑』

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を編年体で記す。

1309年(延慶2年)以前?『平家物語』

日本の鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いたもの。作者は不明。語り物。
語り本系
読み本系
『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。読み本系統に分類される。
天草版

14世紀半ば?『義経記』(ぎけいき)

源義経とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語。全8巻[1]南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。歌舞伎人形浄瑠璃など、後世の多くの文学作品に影響を与え、今日の義経やその周辺の人物のイメージの多くは『義経記』に準拠している。
なお、「源義経(みなもとのよしつね)」の読みは訓読みで「よしつね」であるが、本書では音読みで「ぎけいき」と読む。森銑三は中世・近世期には個人に対する敬意を表す意味で人名を音読みする習慣があったことを指摘し、同様の事例には織田信長の半生を記した『信長記(信長公記、しんちょうき)』の例を挙げている。

1333年〜1384年 観阿弥

日本南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師。息子の世阿弥とともに、いわゆるを大成した人物である。名は清次。時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに観は観世に由来)は観阿弥陀仏。その略称が観阿弥で、早くから観世大夫、あるいは観阿弥、観阿として記録に登場する。観世家の祖。

1363年?〜1443年? 世阿弥

日本室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名〈戒名〉は阿弥陀仏〈阿彌陀佛〉号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。

1572年(元亀3年)〜? 出雲阿国

安土桃山時代江戸時代前期の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており[1]、このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる[2]

1596年〜1615年「かぶき踊り」流行

1618年(元和4年)?〜1694年(元禄7年) 菱川師宣

江戸時代画家、菱川派の祖。生年は寛永7年から8年(1630年 - 1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。
見返り美人図

1623年(元和9年)『醒睡笑』(せいすいしょう)

庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集。
著者は茶人や文人としても知られる京(京都)の僧侶、安楽庵策伝。
『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』

1624年(寛永元年)江戸府内に芝居小屋

猿若勘三郎中橋猿若座の櫓をあげる。

1629年(寛永6年)「遊女歌舞伎」禁止

1651年(慶安4年)〜1714年(正徳4年) 竹本義太夫

江戸時代浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛、初期には清水五郎兵衛と名乗る。のちに竹本筑後掾と称した。

1651年(慶安4年)猿若座堺町に移転、中村座と改称。

1652年(慶安5年)「若衆歌舞伎」禁止

1653年(承応2年)~1725年(享保9年) 近松門左衛門

江戸時代の浄瑠璃および歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。
家紋は「丸に一文字」。
『曽根崎心中』『冥途の飛脚』『国性爺合戦』『平家女護島』 『心中天網島』『女殺油地獄』

1670年(延宝の初め頃)「江戸四座」

中村座市村座森田座山村座の四座に限って「をあげる」ことが認められるようになった。

1684年「人形浄瑠璃」

古浄瑠璃を独自に発展させた「義太夫節」の始祖である竹本義太夫が、大坂に「竹本座」を建て、自らの義太夫節の演奏と人形による三業(後述)での人形浄瑠璃の興行を始めた。
日本伝統芸能で、浄瑠璃[注 1]と人形によって演じられる人形劇。大正期以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、「文楽」の名称が人形浄瑠璃と同義に用いられる場合もある[1]。人形浄瑠璃は、徳島や淡路から全国に伝わり、日本の伝統文化となった。

1714年(正徳4年)「江戸三座」

山村座が取り潰されて中村座・市村座・森田座の江戸三座となる[2]。その三座も座元(座の所有者)が後継者を欠いたり経営が困難になったりすると、興行権が譲渡されたり別の座元が代わって興行を行うことがしばしばあった。享保末年以降(1735〜)になると、三座にはそれぞれ事実上従属する控櫓がつき、本櫓が経営難で破綻し休座に追い込まれると年限を切ってその興行権を代行した。

1728年(享保13年)〜1780年(安永8年) 平賀源内

江戸時代中頃の人物。本草学者地質学者蘭学者医者殖産事業家戯作者浄瑠璃作者俳人蘭画家発明家
源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫くにとも[1]、字は子彝しい。数多くの号を使い分け、画号の鳩渓きゅうけい、俳号の李山りざんや、戯作者としては風来山人ふうらいさんじん[1]、浄瑠璃作者としては福内鬼外ふくうちきがい[1] の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人てんじくろうにん、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内ひんかぜにない[2] などといった別名も使っていた。

1746年(延享3年)『菅原伝授手習鑑』

大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き方を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。

1747年(延享4年)『義経千本桜』

大坂竹本座にて初演。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。「大物船矢倉/吉野花矢倉」(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら)の角書きが付く。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。

1748年(寛延元年)『仮名手本忠臣蔵』

大阪竹本座にて初演。全十一段、浄瑠璃作者で座本の二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。

1753年(宝暦3年)〜1806年(文化3年) 喜多川歌麿

江戸時代日本で活躍した浮世絵師
寛政三美人』『ポッピンを吹く女』 

1755年(宝暦5年)~1829年(文政12年) 四代目 鶴屋南北

江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。鶴屋南北を襲名した者は5名を数えるが、単に鶴屋南北または南北というと、通常はこの四代目のことをさす。
また5代の南北のなかでもその業績が突出しているため、この四代目のことを特に大南北(おおなんぼく)ともいう。
『東海道四谷怪談』『盟三五大切』『絵本合法衢』『慙紅葉汗顔見勢』『天竺徳兵衛韓噺』『於染久松色読販』『心謎解色絲』『謎帯一寸徳兵衛』『容賀扇曾我』『八重霞曾我組絲』『隅田川花御所染』『時桔梗出世請状』『桜姫東文章』『浮世柄比翼稲妻』『阿国御前化粧鏡』『彩入御伽艸』『獨道中五十三驛』『四天王楓江戸粧』など

1760年(宝暦10年)?〜1849年(嘉永2年) 葛飾北斎

江戸時代後期の浮世絵師化政文化を代表する一人。

1770年(明和7年)『神霊矢口渡』(しんれいやぐちのわたし)

人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。明和7年(1770年)1月、江戸外記座にて初演。福内鬼外(平賀源内)・吉田冠子・玉泉堂・吉田二一の合作。

1776年(安永5年)『平家正節』(へいけまぶし)

名人と謳われた荻野検校(荻野知一検校)が前田流譜本を集大成して『平家正節』(へいけまぶし)を完成させ、以後は同書が前田流の定本となった。

1780年(安永8年)『荒御霊新田新徳』(あらみたまにったのしんとく)

福内鬼外(ふくちきがい、平賀源内)作の義太夫浄瑠璃。江戸結城座初演。森羅万象、浪花の二一天作を補助とす。

1781年~1789年(天明)から1789年~1801年(寛政) 江戸で再び落語流行

1786年(天明6年) 大工職人を本業としながらも、狂歌師や戯作者としても活躍した烏亭焉馬(初代)(うてい えんば)は、料理屋の2階などを会場として定期的に噺の会を主催。

1791年(寛政3年) 江戸で初めての寄席興行

大坂の岡本万作が江戸におもむき、神田に寄席の看板をかかげて江戸で初めて寄席興行をおこない、寄席色物が登場した。

1794年(寛政6年)〜1795年(寛政7年) 東洲斎写楽

江戸時代中期の浮世絵師
写楽は寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月にかけての約10か月の期間(寛政6年には閏11月がある)内に、145点余の作品を版行している。
約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年(1763年) - 文政3年(1820年))とする説が有力となっている。

1798年(寛政9年)〜1861年(文久元年) 歌川国芳

江戸時代末期の浮世絵師

1798年(寛政10年) 江戸で寄席が開く

江戸の櫛職人だった初代三笑亭可楽(さんしょうてい からく)が江戸の下谷稲荷神社で寄席を開く。

1816年(文化13年)~1893年(明治26年) 河竹黙阿弥(芝晋輔、二代目 河竹新七)

江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。
『網模様燈籠菊桐』(小猿七之助)『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)『三人吉三廓初買』(三人吉三)『加賀見山再岩藤』(骨寄せの岩藤)『青砥稿花紅彩画』(白波五人男、弁天小僧)『処女翫浮名横櫛』(切られお富)『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)『雲上野三衣策前』(『天衣紛上野初花』『雪暮夜入谷畦道』)『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)『新皿屋舗月雨暈』(魚屋宗五郎)

1838年〜1925年 エドワード・S・モース

エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)。アメリカ合衆国動物学者。名字の「モース」は「モールス」とも書かれる。
標本採集に来日し、請われて東京帝国大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力し、大森貝塚を発掘し、日本の人類学・考古学の基礎をつくった[1]。また、日本に初めてダーウィンの進化論を体系的に紹介した。

1839年(天保10年)〜1892年(明治25年) 月岡芳年(つきおかよしとし)

幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師吉岡(よしおか)、後に月岡。本名は月岡 米次郎(つきおか よねじろう)。画号は、一魁斎 芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英(しえい)。最後は大蘇 芳年(たいそ よしとし)を用いた。

1863年(文久3年)「若宮神社」建立

本殿(重要文化財) - 祭神:天押雲根命。比売神の御子神である。文久3年(1863年)建立。春日若宮おん祭で有名である。
拝舎(重要文化財) - 文久3年(1863年)建立。
神楽殿(重要文化財) - 慶長10年(1605年)建立。北3間は細殿、中の1間は御廊、南6間は神楽殿となっている。
手水屋(重要文化財) - 寛永9年 - 10年(1632年 - 1633年)建立。大きな建物で現在は社務所となっている。また、内部には夫婦大国社が祀られている。

1877年(明治10年)6月〜11月 モース来日

進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び、1877年明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡った。文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見。これが、後に彼によって日本初の発掘調査が行なわれる大森貝塚である。訪問先の文部省では、外山正一から東京大学動物学生理学教授への就任を請われた。江ノ島臨海実験所を作ろうとも言われた。

1878年(明治11年)4月〜1879年9月 モース来日 2度目

1878年(明治11年)(40歳)、4月下旬、家族をつれて東京大学に戻った。
6月末浅草で、『大森村にて発見せし前世界古器物』を500人余に講演し、考古学の概要、『旧石器時代』『新石器時代』『青銅器時代』『鉄器時代』の区分、大森貝塚が『新石器時代』に属することを述べ、出土した人骨に傷があり現在のアイヌには食人風習がないから「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論した[4]。演説会の主催および通訳は、江木高遠であった。(講演の中の『プレ・アイヌ説』は、考古学の主流にならなかった[5]。)

1882年(明治15年)6月〜1883年2月 モース来日 3度目

1882年(明治15年)(44歳)6月初、家族を残し、日本美術研究家のウィリアム・スタージス・ビゲローと横浜に着いた。東大側は歓迎し宿舎を提供した。あちこちで講演し、冑山の再訪もしたが、今回は民具と陶器の収集が目的で、民具は、『ピーボディー科学アカデミー』用であった。大隈重信が、所蔵の全陶器を贈った。
7月下旬から9月上旬まで、アーネスト・フェノロサ、ビゲローらと、関西・中国へ収集・見学の旅をした。そして武具や和書も集めたのち、1883年2月、単身離日した。

1895年(明治28年)〜1959年(昭和34年) 石川欣一(いしかわ きんいち)

ジャーナリスト随筆家翻訳家。おもに毎日新聞社に属した。
1918年(大正7年)(23歳)、東京帝国大学英文科から、アメリカプリンストン大学に転じ、1920年卒業して、大阪毎日新聞社の学芸部員となった。留学中、父千代松の恩師、大森貝塚エドワード・S・モースの知遇を得、その縁が、モースの『日本その日その日』の邦訳・出版(1929年)に繋がった。

1917年(大正6年)〜2001年(平成13年) 六代目 中村歌右衛門

日本歌舞伎役者屋号成駒屋定紋祇園守、替紋は裏梅日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。

(メモ)江戸東京博物館のワークショップにてプロジェクターで観せて貰った白黒映像に圧倒された。この経験から、映像で一番重要なのは、基本的には画質でも音質でもないことは知っている。

1919年(大正8年)〜2006年(平成18年) 初代 吉田玉男

日本の文楽人形浄瑠璃の人形遣い。大阪府大阪市に生まれる。本名・上田末一(うえだ すえいち)。1933年昭和8年)吉田玉次郎に入門し、玉男と名乗る。立役(男役)。戦中二度出征。戦後『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役となり、生涯で1136回務めた。抑制の効いた、理知的な動きの中に、秘めた情感や品良き色香を表現し、その技は最高峰と謳われた。

1925年(大正14年)~1970年(昭和45年) 三島由紀夫

日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。
戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である[1][2][3]。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある[4]。

1929年(昭和4年)『日本その日その日』

邦訳 石川欣一。大森貝塚の発見者として知られるエドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)による、1880年頃の日本を描いた著作である。
1917年ボストンのHoughton Mifflin Harcourt社が出版。この中にある、彼自身が描いた777枚のスケッチも貴重である。

1931年(昭和6年)〜 二世 野村万作

狂言和泉流能楽師。「万作の会[1]主宰。東京出身。東京都立小石川高等学校早稲田大学第一文学部卒業称号(現学位)文学士文化功労者日本芸術院会員人間国宝練馬区名誉区民

(メモ)万作さん出演の『靭猿』をVHSで観て衝撃を受ける。この経験から、映像で一番重要なのは、基本的には画質でも音質でもないことは知っている。2度目。

1940年(昭和15年)〜 唐十郎

日本劇作家作家演出家俳優。本名:大靏 義英(おおつる よしひで)。劇団「唐組」主宰、文化功労者

1944年(昭和19年)〜 十五代目 片岡仁左衛門

日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡片岡仁左衛門」の当代。屋号松嶋屋定紋七つ割丸に二引替紋追っかけ五枚銀杏日本芸術院会員[1]重要無形文化財「歌舞伎立役」の各個認定の保持者(人間国宝)。

1955年(昭和30年)〜2012年(平成24年) 十八代目 中村勘三郎

歌舞伎役者、俳優。本名は波野 哲明(なみの のりあき)。屋号中村屋定紋角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。舞踊名に藤間 勘暢(ふじま かんちょう)、猿若 勘三郎(さるわか かんざぶろう)がある。

(メモ)私の30代の生活は、十八代目 中村勘三郎が中心。朝、目を覚ませば、何か楽しいことが待っている、面白いものが観られる、と思わせてくれた太陽の様な存続。初めてのニューヨーク公演は、応援せねば!と思い立ち、隈取り柄の浴衣と下駄を持ってニューヨークへ向かい初日に昼夜通しで観劇。

1956年(昭和31年)〜2015年(平成27年) 十代目 坂東三津五郎

日本俳優歌舞伎役者。日本舞踊坂東流家元屋号大和屋定紋三ツ大、替紋は花勝見俳名は一万尺[1]

1967年(昭和42年)〜1969年(昭和44年)「紅テント」

唐十郎が、新宿花園神社境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演。当初、神社側から「『腰巻』では国体に反する」とのクレームが入ったため、『月笛お仙』と改題して上演したが、1週間程度で元の『腰巻』に戻している。この紅テントが話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけた。

(メモ)私は花園神社の紅テントを一度体験しているため1969年以降にも設営されたはず。要確認。

2000年(平成12年)〜「平成中村座」

歌舞伎役者の18世中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年(平成12年)11月に歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりである。

2002年(平成14年)〜 Ado

日本女性歌手。所属事務所はクラウドナイン。所属レーベルはVirgin Musicゲフィン・レコード
小学1年生の頃から父親のパソコンでVOCALOID楽曲を聴き始める。小学校高学年になると、ニンテンドー3DSに配信されていたソフト「ニコニコ動画」や「うごくメモ帳」から、顔を出さずに活動する歌い手の文化に興味を持つようになる[2][3]。2017年1月10日、ニコニコ動画にボカロ楽曲「君の体温」の歌ってみた動画を投稿[4]し、歌い手としての活動を始める。

2007年(平成19年) VOCALOID初音ミク

2007年8月31日発売のVOCALOID初音ミク」の登場からボカロ業界が動き出したとされている[4][12]。1週間で1000本、半年間で3万本という大ヒットを記録した初音ミクの誕生は、次第に音楽業界へと影響を与えていった[13]

2016年(平成28年)〜「超歌舞伎」

松竹ドワンゴの制作により、伝統文化「歌舞伎」と、最先端技術「ボーカロイド」が融合した公演[1]。超特別協賛と技術協力は日本電信電話(NTT、電話屋)。
初音ミクを中心としたバーチャルシンガー(ボーカロイド)と、二代目中村獅童を中心とした歌舞伎役者が、日本電信電話(NTT)による最新テクノロジーを駆使した演出により共演する歌舞伎で、2016年のニコニコ超会議2016の中の企画として始まる[2][3]


以下、分類待ち

「神楽」

「東遊」

「細男」(せいのお)

「神楽式」

「振鉾三節」(えんぶさんせつ)

「萬歳楽」(まんざいらく)

「延喜楽」(えんぎらく)

「賀殿」(かてん)

「地久」(ちきゅう)

「長保楽」(ちょうぼうらく)

「江戸三座」

「操芝居」(あやつりしばい)

〘名〙 浄瑠璃の語りに合わせて、操り人形を演技させる芝居。また、その劇場人形浄瑠璃り浄瑠璃。操り狂言。操り人形芝居。あやつり。
[語誌](1)室町時代には、台の上に人形を置いてなどで動かすものを「操り」「操り物」と呼んでいた。これと浄瑠璃とが結びついて成立した。慶長(一五九六‐一六一五)の頃、京都に発生し、江戸に移り、のち大坂で栄えた。
(2)明治時代以降は「人形浄瑠璃」と呼ぶことが一般的となった。竹本座豊竹座から文楽座に受け継がれ、現在では文楽とも呼ばれる。

「結城座」

江戸時代前期頃に結城孫三郎(初代)江戸葺屋町(現在の東京都中央区日本橋人形町付近)に創設した劇場。説経浄瑠璃が演目だった[1]がこれが衰退すると義太夫節人形浄瑠璃を演じるなどした[2]。その後は移転を繰り返し幕末まで続いた[3]。明治になり、結城孫三郎(9代)が、これまでの演目に加え、糸あやつり新派劇を演ずる劇団として組織し[1]結城孫三郎(10代)が東京都武蔵野市吉祥寺に再興した[3]。2009年に公益財団法人となり公益財団法人江戸糸あやつり人形結城座として存続している[4]

「浪曲・浪花節」

日本明治時代初期から始まった演芸で、「浪花節」(なにわぶし)とも言う[1]三味線を伴奏にして独特の節と語りで物語を進める語り芸(話芸)。一つ30分ほどである。
落語講談とともに「日本三大話芸」の一つとされ[1][2]、最盛期の昭和初期には日本全国に約3000人の浪曲師がいた[1]。その後、急速に衰えた[3]が、復興や再評価の動きもある(後述)。

「講談」

日本の伝統芸能のひとつ。演者は高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物軍記読み)や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。


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