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映画『シェルタリング・スカイ』を観て雑感

シェルタリング・スカイ

公開年:1990年
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
原作:ポール・ボウルズ
音楽:坂本龍一
出演:デブラ・ウィンガー、ジョン・マルコヴィッチ、キャンベル・スコット等

映画


原作小説

タバコ、セックス、音楽、ギャグの描写が原作小説よりマシている。
しかしマシているからと言って良い方向に行っているかと言うと一寸疑問である。
ある部分を除き原作のダイジェストのようになってしまっていて、小説より説明不足な点が多く、理解し難いところもある些か残念な映画となってしまっていた。
あとその他問題点はいくつかあるように思う。

だがそういう問題点をいちいち挙げていくより、この映画の大きな注目すべき部分は、原作者ポール・ボウルズの出演である。
この映画で、ボウルズは最初に主人公たちが訪れるカフェでただ彼らを見つめ、彼らの行く末をナレーションで語る。
そして全てが終わって再び旅の最初のカフェに戻ったぼろぼろのキットに対してボウルズが「迷ったのかね?」と問う。「ええ」とうなづくキットに、ボウルズのナレーション。

「人は自分の死を予知できず、人生を尽きぬ泉だと思う、だがすべて物事は数回起こるか起こらないか。自分の人生を左右したと思えるほど、大切な子供の頃の思い出も、あと何回心に浮かべるか4〜5回思い出すのがせいぜいだ。あと何回、満月をながめるか、せいぜい20回。だが人は無限の機会があると思う」

小説の中でも似た言葉が、ポートの発する言葉としてある(新潮文庫、1991、p.322)。
映画内でボウルズはこのポートの台詞を自ら引用したのだ。

しかしなぜボウルズはこのポートの言葉を映画の最後に引用したのだろう。そして、道に迷ったのは果たしてキットだけなのだろうか。
このボウルズの言葉は迷いの先の救いになるのか……。

この言葉は『シェルタリング・スカイ』という物語の中で最もボウルズが強調したかった台詞の一つだったのではないか。
小説内でキットにとっては悪夢の如くこのポートの言葉が意味を持ってくる。キットはこの言葉を思い出してしまって、刹那に振り払おうとするが、小説の読者あるいは映画の観客である我々にとっては、感銘を受けるような至言である。

そしてまさに感銘を受け、この言葉を使った作品を作った人がいる。
この映画の音楽を担当した坂本龍一である。

坂本は、この映画の公開から27年後の2017年に”async”というアルバムを発表し、その中の一曲”fullmoon”にてボウルズのこの台詞をサンプリングし、そして世界各国の言語でそれぞれのネイティブのアーティストにこの言葉を語らせている。最後に映画を監督したベルトルッチがイタリア語で朗読し、曲が終わる。
その後坂本によれば、ベルトルッチは曲の完成から一年後に亡くなり、彼の生前最後のアピアランスとなったという。

そして、坂本龍一は生前最後に語りおろした自伝のタイトルにこのボウルズの台詞からとって使う。
『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』と。

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