運動靴はバケツに浮かぶ秋の日の水の重さに押し上げられて(エッセイ)

 ダラダラと寝転んで過ごした休日の日暮れに、「いかん、このままでは今日という日がなかったことになってしまう」と焦る気持ちが湧いてきて、「せめて一つ有意義なことをしよう」という気になり、そうだ靴を洗おう、と思い立った私はバケツに水を溜めて、靴と洗剤をそこに放り込んだ。

 私は靴を買い換えることがとても苦手だ。(足のサイズが縦には長いが横幅が細い変わったタイプらしく靴づれしない靴を探すのにいつも苦労しているからだ)。

 新しい靴を買って、後から失敗だったと気づくこともあるので、何だかそもそも靴を選ぶこと、靴屋に入ることが憂鬱なのだ。一度ぴったりくる靴を見つけたら、とことん履き潰すまでその靴を履く。

 数時間水に付けていた運動靴をいざ手に取ってみると、靴底からピューッとすごい勢いで水が漏れたので、ギョッとした。裏返して靴底を見ると、完全に底の部分に大きな穴が空いていた。どうりで、雨の日なんて、水が染み込むのが早いなあと思っていた。つまり私は靴の「側」だけ足に嵌めていて、靴の本質(=「底」)はとっくに失っていたのである。

 ほんの一瞬、全てを忘れて、ピューッと飛び出る水を見て、愉快な気分になる。にぎにぎ、ピュー。にぎにぎ、ピュー。そうしていると、靴の側の布がぼろぼろと崩れて、え、と思う間に底の穴もどんどん広がって、一気に私の靴は原型を失った。あっという間の出来事に、驚きが隠せない。ただ、洗おうとしていただけなのに。私は元、運動靴を見下ろして呆然とする。

 いかん、明日から履く靴がない。重要なことに気がつく。明日も仕事があり、靴を履いて出かける必要がある。そうだ、靴屋だ。今から新しい靴を買いに行こう。時計を確認する。17時過ぎ。今から家を出ればぎりぎり店も開いている時間だ。私は鞄に財布と携帯電話を投げ込んで家を出ようとする。これで家を出るきっかけにもなる。一日一回家を出れば、休日としても有意義さを増すだろう。

 玄関口に差し掛かったところで、私は気づく。履いていく靴がない。
 私は立ち尽くす。もう、家を出ることができない。私は本当に靴というものについては一途で、履ける靴を見つけたら最後、その靴が消え去ってしまうまで、その靴を履き続ける人間なのだ。

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