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筆32 人生に目当てを設定するときに大切な2つの問い 1/3

人生に目当ては必要か

今はとても書くという気が起きないけれど — それをしながらその気が起きるというのはありがちだ、それでも書いて考えておくべきだということが浮かんだので、これを記述してみたい:すなわち,「生きることに目当てはあるべきか」ということである。

人生には,「私はこれをやるために生きている」と断言できることがあった方が良いだろうか。私はあるに越したことはない、と素直に思う。なお、先にいった「これ」とは、多くの場合”夢”とか”目標”とかを指すだろう。

思うに、夢のある人生の方が、おそらく張合いがあるだろうし、一定以上の充実感が得られるはずだ。そうした「張合い」とか「充実感」とかは、ときに”幸福”と呼ばれるだろう。やはり人生、幸せで楽しい方が結構ではないか。だから,「生きることに目当てはあるべきか」ということの解は、実に単純なのである。思うところでは、張合いや充実感のある人生とは、つまり、夢のある人生なのである。

目当ての設定に大切な2つの問い

では、夢のある人生を送ろうではないか!このとき、生きる上で目指すこと=目当ての内容を勘考する上で、私が肝要だと思うことは,「大いなる存在に惹かれているべきか」という問いと、目当てが設定できないという苦悩、換言して,「やりたいことが(見付から)ないという苦悩をどう扱うべきか」という問いである。この2つの重要な問いについて、下に管見を載筆(さいひつ)する。

なお、なぜ上述の2つの問いが重要であるか、簡潔に説明すると、次の通りとなる:目当てを設定する際に、その前提として神を肯定するのと否定するのとでは、目当ての(実践の)志向が異なる、そして、そもそも目当てを設定するに足る蓄積を持たない場合は、算段が一向に付かない。

のちに詳述を試みるが、神を肯定する場合は、往往にして神を意識した、目当ての設定が行われるから、有神論の域内から出ない目当てしか設定できない。反対に、神を否定した場合は、往往にして科学的で理知的で — ときに観念的かも知れない — 世俗的な、目当ての設定が行われるから、無神論の枠内に留まる目当てしか設定できない。有神論者は科学を以て世界のあらゆる現象を(徹底して論理的に)説明しようとはしないし、無神論者は牧師や僧侶や祠官を目指そうとはしない。大いなる存在への姿勢は、目当ての設定に甚だ関係する。

幸せで楽しくいたいとき、張合いや充実感を与えてくれる〈夢や目標を持つこと〉に取り組もうというに、もしそれができなかったら、どうだろうか。私であれば、悲嘆に暮れ沈思するかも知れない。そうしたとき、どうしたら目当てが設定できるのか、何が目当ての設定できるまでに必要とされるのか、これを解き明かすことは、極めて緊要なことではないだろうか。(続)

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