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(泣)

今夜はすごく辛いです。孤独で寂しくて不安です。愛する人にぎゅって抱き締めてほしい。

だけど、今いないし、そばにいない。こういうとき、一番大事なことは、自分を愛する、ということなんじゃないか、と思うんです。決して、お金を払ったら、抱き締めてくれる人のいるお店へ行くなどして、誰でも良いから、自分のことを抱き締めてくれる人を探すこと……ではないでしょう。

自分を愛するという、とても大切なことが分からなくて、もし例えば、私が生物学的に女で、おっぱいやおまんこがあったら、性欲に溺れた男らに、逆にお金を出させて、精神的空虚のみならず、金銭欲まで満たして、味を占めていたかも知れません。生物学には男で且つ過酷な肉体労働に耐える体力もないから、自分を売るなんてことが私にはできない。ひょっとしたら、そのことは幸いだったかも……。

でも、世の中には愛に飢えて、それを満たそうとどんどん自分のことを傷付けて、心の苦しみを忘れてしまおう、としている人たちがいっぱいいる。自分を愛するという、たった一つのことが分かっていないが故に、自分を自ら不幸に陥れてしまっている人たちがいる。そういう人たちに、私は心から同情する。

同時に、自分を愛することが大切なんだよと、教えてあげたいと思う — 併せて、自分にもそう教えてあげたい。愛に飢えて苦しんでいる人たちは、世界に大勢いる。お金がもらえたりカワイイとかキレイとかいってもらえたりすると、一時的には心が満たされるので、自分の行いを正当化できます。

しかし、次第にそうやって負のスパイラルに填(はま)っていくのです。そうです、不幸の始まりです。人生はそういうところから狂っていってしまうものです。

そのことに気付かない人もいるし、気付いていながらどうしようもない、という人もいます。もし愛する人がいても、その人はぎゅって抱き締めてあげて、いっぱいいっぱい元気をあげたら、その後は当人にこういわなければなりません:たっくさん元気をあげるよ、だけどね、最後は自分が自分の力で立(ち直)っていかないといけないんだよ。もし甘えてきた相手をいつも抱き締めて当方に頼らせていたら、相手は往々にして依存状態になってしまいます。

危ないことに、世の中には、頼られている、ということに自信を見出して、頼ってくる相手をそのまま受け入れ、良しとしてしまう人もいます。そういう関係が至るところは、危険な依存関係です。そうなると、お互いに辛いです。

だから、自分を愛して互いに精神的自立を果たすことが大切なのです。自分の問題に翻ると、自分はとっても愛に不足しているのだと思います。もしそばに愛する人がいたら、抱き締めてって絶対にいっている。

だけど、元気を分けてもらうだけに留まれば良いけれど、相手に全部を委ねてしまう、つまり無思考的に相手の言動を欲してしまうのは危険です。さらにその人が、自分で最後は自分を愛して自立しなきゃダメよ、といってくれない人なら、なおさら危険です。自分を愛することが本当に大事なんだということを、改めて意識したいです。

本来はこういうことって、親が教えるものだと思うんです。親が養育のなかで、子に見返りを求めない愛を与える:そのなかで子は、自分の愛し方も身に付けて自立していきます。そうして自分の愛し方をちゃんと身に付けた子は、とても強いです — どんな悲しみにも、どんな寂しさにも、最強の処方箋を自ら与えることができるのですから。

そういう人を、私は「強い人」と言えるのだと思います。だけれど、そうやって一人で逞しく生きていけちゃう人は、本当にずっと一人で良いんでしょうか。親が自分の愛し方を教えてくれて子は強く生きていけるようになるんだったら、どうして人は人と一緒になるんでしょうか;どうしてパートナーを見付けて付き合うのでしょうか。

そのことが私には疑問です。やっぱり人は不完全だから、つまり人は一人で生きていけるまで(自己)愛に満ちた存在になり得るほど完全ではないからでしょうか。遺伝子の継承とかシェアリングエコノミーの視点からではなくて、単純に愛の観点からの見解を、私は聞きたいです。

あともう一つ話しておきたいこととして、自分の愛し方ってどんな方法があるか、ということがありますが、これはこれでとっても話が長くなるので、別の回に譲ります。でも簡潔にいって、それは自分の内なる声に耳を傾け忠実になるということです。このことに尽きます。

自分の気持を整理してあげる、というふうにも言えるでしょう。とにかく自分に自ら寄り添ってあげることです。自分を俯瞰して見ることを、目指すことです。

サポートいただきました分は、私の夢である「世界の恒久平和の実現」のため、大切に使わせていただく所存です。私は日々、夢に向かって一歩ずつ── ときに半歩ずつ── 邁進しています。