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詩329 間違っていること

きっとぼくには
間違っていることがある。
けれども
間違うことを恐れて何もしないのは
まったくもって得策ではない。
それから
争いを起こさないため
といって
ルールを厳格化し過ぎたり
制限を増やし過ぎたりしては
実に本末転倒だ。
締付けは人々の不満を産むし
またそれは
人々のできることを減らし
希望をいだきにくくさせる。
積極的に果敢に
何事にもチャレンジして
いいたいことはできる限りいって行きたい。
それがぼくの本音だ。
間違ったなら脱皮のための肥やしにすれば良い。
しかし
そもそも
正否を判断することには
どこまでも恣意性が
伴うものであり
客観的で且つ普遍的に
正否を判断することほど
この世で難しいことはない。
誰かが私に「お前は間違っている」と(主観的に)いうのなら
それは当人の持つ基準による発言だ。
もし自分が自分にいうのなら
自分の好きなように決めた基準による発言。
法律や憲法だって
人が決めるものであって
神が決めるものではない。
その法がどれだけの妥当性を有しているかは
いつも問われていなければならない。
問われた結果として内容が改められれば
正しいことや間違っていることも忽ち変わる。
また
国が変われば
法も変わる。
場所が変われば
文化や慣習も変わる。
何が正しいのか
何が不正なのかなんて
簡単に決められるものではない。
間違っていると思うなら
どの視点からいって間違っているのかが
いつも問われなければならない
──── 間違っていると思う所以ゆえんを与えている視点を相対化せよ。
結局
正否は立場によって変わりうるのだから
間違っているかも知れないと恐れることも
実はナンセンスなのかも知れない。
だからこそ
間違うことに尻込みしないで
やりたいと思ったことはやれば良いし
いいたいと思ったことを言えば良い

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