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過去と未来のカレーの中へ、行ってみたいと思いませんか?

「カレーとは何か?」は、カレー有識者であれば必ず思考経験がある問いだ。それは、麻婆豆腐はカレーだろうか?とか、スパイスを何種類使っていればカレーなのか?とか、そういう定義めいた話とはちょっと違う。「カレーとは何か?」はカレーであるという定義の探索を内包しつつも、より解釈の範囲が広い。もっと冒険的なのだ。

最初に「カレーとは何か?」と出会ったのは水野仁輔さんの書籍だった。僕はそこから影響を受けている。※ちなみに海原雄山も言っていた。美食倶楽部すごい。

この抽象度の高い質問に対しての回答は十人十色で面白い。構成を説明する者、歴史・文化を照らす者、エモい思い出を語る者、概念だという人さえいる。それは、どこに刺激の応酬があったかを確認するような作業であり、自分がどのようにカレーに隷属しているかを証明する宣言でもある。

ケララ州で食べたミールス。フレッシュなスパイスに猛烈に感動して、これカレー?って思った

きっとカレーとは夜空に瞬く星空のようなもので、それが何かと問われたら、その答えは、星空のどこかを切り取って星座の説明をしているようなものなのだ。

では、その不明確性を肯定した上で、カレーの持つ先天的な仕様(ア・プリオリ的なもの)は何かと言うと、"混ざる " ということだと僕は思う。カレーは決してシンプルではなく、足し算でしか成立しない。

スパイスのオーソドックスな使い方は、コリアンダー、クミン、ターメリック、チリペッパーの混合だが、インド亜大陸では実に複雑に分化し混ざっていく。また、東南アジアのカレーになるとスパイス以外にもハーブとの掛け合わせが強くなり発展していく。当然、こちらも、必ず混ざっている。

モツのグリーンカレー。スパイスは少なく、ハーブとナンプラー、砂糖で味を決めていく。

カレーの "混ざる " は、その物質的な構成要素だけでなく、文化も混ぜていく。イスラームとヒンドゥスターンの混合は、ムグライ宮廷の大きなうねりからはじまり、その繁栄と共に食文化は、西はペルシア・東欧へ。タミルから海洋都市を通じてアジア圏の諸国にも混ざっていった。その中で日本は非常に異質だった。イギリスを経由して伝わったのでフレンチの様式を伴う洋食カレーから始まる。そして、その後にインド独立運動の獅子達により原点のインドカレーが普及した。周辺アジアとは全く異なった歴史だ。※気になる人はこの記事あたりをどうぞ。

この統一性のない二面性のカレー普及は日本だから可能だったように思う。東の辺境に住む僕達日本人は古くから漢字と仮名を同時に使い、本音と建前の文化を外交手段にも活用して生きてきた。だから「はっきりさせない」運用が非常に得意なのだ。僕達はその素地からカレーの "混ざる "を寛容に見ていられる。ルーツをないがしろにするでもなく、変化を受け入れないでもなく。

このあやふやさを自由と呼ぶならば、日本は世界でも飛び抜けて自由だ。その象徴がカレーだとしたら、尚のこと滑稽なようで、こんなに真剣に愛せる対象を僕は知らない。日本人の多くがカレーを好んでる。やはり日本だからこそ生まれるカレーの考察、オリジナルがあるのだと思う。

カレーの縦軸を考える

僕はよくカレーシーンを表す時に、カレーの作り手を再現派と表現派という極性で考えるが、その認知の裏で駆動している思考は、地域的な特性の切り取りと、それとの相対だと最近気づいた。

パキスタンのマトンカラヒ。カラヒは鍋って意味。トマトたっぷりで、玉ねぎを殆ど使わない。

どういうことかと言うと、北インド・カシミール地方のローガンジョシュを、パキスタンのカラヒを、タイ北部のカオソーイを、ミャンマーのチェッターヒンを、大阪のスパイスカレーを、僕達は地域とカレーの種類を脳内でタグ付けして記憶している。その土地の(ある意味ではレペゼンな)とカレーとして。オリジナリティのあるカレーというのは、そことの対比からインスピレーションを受け、どう距離をとるか、何を混ぜるか、ということから生まれる。

だが、地域のカレーを考える時に、ふわっと疑問に思ったのだ。これらのカレーはずっとこの姿だったのだろうか?と。100年は変わっていないかも知れないけど、500年前もこの姿をしていたのだろうか?

そんなことはない。僕達は見逃している。地域性の切り取りには時間軸がないのだ。全ての地域性の切り取りには「現在の」が補足されるべきで、ここでメタ認知的な「カレーとは何か?」が生きてくる。マトリクスで言うと、横は地域性を起点とした軸、縦は時間軸だ。

地域性と再現、表現は密接な関係にあるなーと思う。

時間軸、つまり過去と未来だ。過去のカレー、例えばメソポタミア文明には歴史的には最古のレシピとも言えるマスタードシードとアサフェディタを使った豚肉の煮込み料理がある。これはカレーと言えないだろうか?

未来のカレーを考えてみよう。「2100年のミシュラン料理がどうなってるのか?」をシュミレーションするという実験があった。AIは人口推移の影響を試算しアフリカと中国の食材を多く使うメニューを作り上げたそうだ。そして、それが不味かったらしい。かなり興味深い。2100年のカレーも今の僕達には不味いのだろうか?

時間軸の切り取りを意識すると、時空を飛び越えた融合も可能にしてくれる。もっと自由なカレーが見えてくる。縄文時代の日本には生姜と山椒はあった。例えば、使い方の知識がないだけで、それらを駆使すれば縄文カレーができるのではないか?

これでカレー作ってみたい。

今、僕は非常に気持ちがいい。人間は解決よりも、新しい問いを見つけた時のほうが幸福だ。

こういった問いに対して、カレーを作り、検証していきたいと思っている。

さて、ここからはこの自由研究にどうリソースを割いていくかが課題だ。今までやってこなかったが少し組織的な体制を取ろうと思う。今年はやりたいことが3つあって、その一つがPodcastだ。この着想を配信につなげていこうと思う。まずは次男と長男に相談だ。

サポートしていただいたお金は、全てカレーの中に溶けていって、世界中に幸せが駆け巡ることでしょう。