Vol.6 子ども主体を目指すには
自分の軸となるもの
今日まで主体と自律についてあれこれ試行錯誤を繰り返してきました。
自分は、「子どもが主体である」ということを大切にしながら、「一人ひとりが自律して学んでほしい」という願いをもっています。
これまで、そこに子どもたちが向かえるようにかかわっていたんだろうなとか、自分の軸がここにあったから、主体とか自律とかにギュッと惹きつけられたんだろうなとか思っています。
ただ、はっきりしていないことがまだまだたくさんあります。自分の目の前にある「はっきりしていないこと」とじっくり向き合って、そこでしっかり立ち止まって考えていこうと思います。
自分がしたいこと、こうなってほしいという願い、そのあたりがはっきりすればするほど「じゃあ自分は何をすればいいのかな」というところが気になってきます。
「子どもが主体」だからといって、「教えない」とか「言わない」とかにはならないんじゃないかな、とか、自分の役割を減らすとか、移行するとか、そういうのでもないような気がしていて。このあたりまだまだモヤモヤしています。
もう少し、自分の役割?みたいなところについても立ち止まって考えてみたいと思います。
「教える」の主語は『教師』であって、「教師が教える」となると、「ちょっと待って!」と止める自分がいます。
「教師が教えることが必要なときもある」ということには納得していて、教えることを否定して、教えないことを目指しているとかそんなことではありません。
でも、なんだか違和感があるんです。このモヤッとした感じ。
これからしばらくこのあたりをウロウロしてみようかなと思います。
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