Vol.6 子ども主体を目指すには

 教師は、どんな価値観から教材を見きわめ、また選定しようとするか。これは大きな問題であるが、教師の胸の底には、つねに、子どもの何を育てようとするのか、どう導こうとするのかという教育理念(目標)や、どんな国語力をつけようとするのかという指導の願い(目標)が秘められていなくてはならない。

今井鑑三(1997),子どもが生きているか P228

自分の軸となるもの


 今日まで主体と自律についてあれこれ試行錯誤を繰り返してきました。

 自分は、「子どもが主体である」ということを大切にしながら、「一人ひとりが自律して学んでほしい」という願いをもっています。

 これまで、そこに子どもたちが向かえるようにかかわっていたんだろうなとか、自分の軸がここにあったから、主体とか自律とかにギュッと惹きつけられたんだろうなとか思っています。

 ただ、はっきりしていないことがまだまだたくさんあります。自分の目の前にある「はっきりしていないこと」とじっくり向き合って、そこでしっかり立ち止まって考えていこうと思います。

どうしたらいいのか、どこから手をつければいいのかが、わからないくらい複雑に入り組んだ問題があります。だれでも、大人なら、何度かは経験しているでしょう。仕事のことでもあるし、人間関係のからむことでもある。苦しむことそのものは解決の道ではないのですが、苦しんでいたら、気が紛れるとも言えるんですよね。でも、それは結局、問題を難問に変えていくだけ。じぶんが難問を抱えていたという場合でも、他の人の手伝いをしていたという場合でも、解決に至る道は、わりと、同じようなものでした。ひとまず、他人の目と、他人の手を借りる。そして、解決しようとするよりも先に、問題のひとつひとつを、よく見て、目の前に置く。どこからなら手がつけられるか、糸口を探す。そして根気よくほどいていく、と、これだけみたいです。いちばんの山場は、「よく見て、目の前に置く」のところ。いったん、めげそうになるのも、ここのところですね。深呼吸して、無理して笑って、やってみるんですね。

糸井重里(2018),みっつめのボールのようなことば。 P56•57

 自分がしたいこと、こうなってほしいという願い、そのあたりがはっきりすればするほど「じゃあ自分は何をすればいいのかな」というところが気になってきます。

 「子どもが主体」だからといって、「教えない」とか「言わない」とかにはならないんじゃないかな、とか、自分の役割を減らすとか、移行するとか、そういうのでもないような気がしていて。このあたりまだまだモヤモヤしています。

 もう少し、自分の役割?みたいなところについても立ち止まって考えてみたいと思います。

現実の課題は,教えることが問題なのかどうか,ということではなく,教えることがどのように問題とされるのか,そして教えることは何のために問題とされるのか,ということである。すでに複雑になっている議論は,これらの問いと関係している。

ガート・ビースタ(2018),教えることの再発見 P1

 「教える」の主語は『教師』であって、「教師が教える」となると、「ちょっと待って!」と止める自分がいます。

 「教師が教えることが必要なときもある」ということには納得していて、教えることを否定して、教えないことを目指しているとかそんなことではありません。

 でも、なんだか違和感があるんです。このモヤッとした感じ。

 これからしばらくこのあたりをウロウロしてみようかなと思います。

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