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【歴史本の山を崩せ#043】増補『文明史の中の明治憲法』瀧井一博

≪「憲法」とは何か。明治憲法のイメージが変わる≫

明治日本は押し寄せる西洋文明の波に遭遇し、その文化・文明を積極的に摂取しようと努めました。
これまでの日本には存在しなかった概念が和訳され、現在まで使われています。
「憲法」と訳されたconstitutionもそのひとつです。
一般的に「憲法」といったときは例えば日本国憲法や合衆国憲法など法典化されたもの…すなわち憲法典を指すことが多いですが、これはconstitutionの狭義の意味です。
広義の意味として「国のありかた」「国のかたち」というようなニュアンスであり、憲法典はそれを法典として規定したものであるということになるでしょう。

本書のタイトルに掲げる明治憲法とは、もちろん大日本帝国憲法も含みますが、憲法典だけを取り上げて大久保利通、伊藤博文、山縣有朋といった明治政府の元勲たちが描いた「国のかたち」を検証することはできません。
彼らが西洋文化の波に触れ、新たなる世界への憧憬・幻滅を経ながら、自分たちの「国のかたち」を組み上げていく姿が臨場感をもって描かれています。

また、大日本帝国憲法は、天皇大権を認めた欽定憲法ということもあり、現行の日本国憲法と比べて、民主的ではないと思われているでしょう。
確かに条文のみを素読するとその通りなのですが、成立過程を見ていくと、特に伊藤博文などは時間をかけて、当世風にいえばかなり国民にとってリベラルな政体の実現を構想し、憲法の中に仕掛けを施していることがわかります。
立憲カリスマといわれた伊藤の描いた「国のカタチ」は「ホンネ」と「タテマエ」が渾然一体となった憲法として歴史に生まれることになります。

しかし、「ホンネ」と「タテマエ」の両面を具有する憲法を機能させるためには運用者の巧みなハンドリングが求められます。
運用者の育成を期待した伊藤の構想通りに、日本は進むことができたのか。
「タテマエ」ばかりが強調され運用者が「ホンネ」を忘れて、憲法が「不磨の大典」化してしまった時…昭和初期の日本に何が起きたのか。
これは憲法の話というと神学論争のような様相すら呈しつつある現代日本にも投げかけられたテーマであるでしょう。

増補『文明史の中の明治憲法』
著者:瀧井一博
出版:筑摩書房(ちくま学芸文庫)
初版:2023年3月
本体:1,300円+税

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