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竹美映画評50 我の名を呼ぶのは誰じゃ… 『キャンディマン』(”CANDYMAN” 、2020年、アメリカ)

キャンディマン…キャンディマン…キャンディマン…キャンディマン…キャ…

クライブバーカー原作の映画化作品『キャンディマン』(1992年)は、まさかの30年近い時を経て、新たな命を吹き込まれ、子供が面白半分で唱える呪文などではなく、ポリティカルコレクト時代の悪人どもを抹殺する魔物を呼び出す呪文として復活した。

前作の主人公ヘレンの物語は伝説となってシカゴの街で囁かれていた。売れっ子アーティストのアンソニー・マッコイは、恋人ブリアンナの弟(オネエ。ハンサムな白人の彼氏付き)がノリノリで仕入れてきた噂話に心惹かれ、図らずもキャンディマンを目覚めさせてしまう。

シカゴ市の建築物を眺める作品としても大変刺激的だ。かつて『ポルターガイスト3』の舞台となったビルが彼方に見えるだけでわくわくした。劇中の感じの悪い批評家の家は、トウモロコシ型のマリーナシティであろう。インテリアも最高だ。

場所の記憶についての映画でもある。三世代以上前から東京に住んでいる人たちは、「山の手」「下町」「〇〇区」「新宿」などの単語にピンとくるイメージがある。それは、新たに出来上がったものによって容易に塗り替えられることもあるが、意外な形で過去が残存する。まるでアステカ人の呪いが現代に浸透しているかのように見えるメキシコのホラー映画『メキシコ・オブ・デス』のエピソード「ツォンパントリ」のように、過去というものはなかなか消えない。そして場所に紐づいた怖い話というのは、日本のネット怪談「裏S区」に明らかなように、現実の社会におけるタブーや不均衡の存在を示唆する。

本作で取り上げられた地区カブリニ・グリーンもまた、人種に紐づいた貧困の溢れる街から、高級住宅地に生まれ変わった場所である。東京で言うなら渋谷の宮下公園で起こったことに近いかもしれない。ジェントリフィケーションと言うらしい。

映画は過去のカブリニ・グリーンにおける警察の暴力(白人→黒人)から始まり、一気に時代が進み、ゲイであるブリアンナの弟が、白人の彼氏を伴って語るシーンに飛ぶ。このギャップはなかなか面白い。同性愛者の歴史は、人種問題を語る際にはほとんど触れられることはなかったように思う。ドラマ『POSE』では、NYのトランスジェンダーのコミュニティと人種問題とともに、ゲイの中にあった(あるのかな今も)人種差別の問題が描かれていた。アメリカでは都市のクリーン化と地価の高騰というジェントリフィケーションにはゲイは大いにかかわっているはずである。

本作が、アメリカホラーの一翼を担う宗教保守ホラー(最近では『死霊館』シリーズ等)と全く異なる位置にいることは必然だ。現世の不条理を救ってくれるのは、現世に試練ばかりを与える神ではなく、時空を超えたアンチ・ヒーローなのだから。神様は何をしているのだろう。と、いうよりも、宗教の要素が一切出てこないことで、魔の力の制裁から逃げる場所はどこにもないということが強調される。一方、悪魔の力を借りたという描写もしない。なぜならそのくらい怒っているからである。

クライヴ・バーカーの原作だが、彼の世界観には、魔の世界には魔のおきてがあるのだ、という形での、あちら側の力に対する尊敬が感じられる。神様が救ってくれない、分かってくれないと感じる者達の悔しい気持ちを、魔の力は分かってくれるのである。つけ入ってくる、とも言えるのだが、魔の力と自分の欲望の力関係は主観的には分かりにくい。その危ういバランスが持つ魅力をバーカーは理解している気がする。スウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』(邦題がひどい)もそういう作品だった。

と同時に、現実に起きていることを痛烈に非難するあまり、「白人」という存在をどう捉えたらよいのか、戸惑ってしまう観客がいるのだと思う。映画の中でも、ブリアンナの弟が人種のことを話した後に、「No offence(あなたを非難してるんじゃないよ)」と白人の彼氏に言っている。そのような状況について白人の若者の側から感じることを、Netflix映画『There is someone in your house』が言及していた。ピューリタニズムの最新版であるポリティカルコレクトネス運動は、「自覚しろ!自覚しろ!自覚しろ!」と宗教的熱狂を以て己の中の差別意識と対峙させ、焼き尽くすことを求める。清められれば何かもっといい世界が待っていると信じているかのように。

今回キャンディマンが殺害した人たちを確認すると、感じ悪い画商、その賢くなさそうな女友達、感じの悪い批評家、学校でいじめをしていそうな女の子たち、警官たち…なのだが、『パージ』時代の作品らしく、嫌われ役の人種が統一されている。そこのところが本作をくそ真面目なものにしている。そう描かなければソーシャル・スリラー作品としては成立し得ない。でも、一方で、「白人」に対するステロタイプが露骨に出ていて、何だか本作を褒めないと、差別する人だと言われかねないような気もした。

もちろん、本作のテーマはそのように描かれる必要がある題材だ。しょせん私は外国人だし、ホラーと、社会への疑念や怒り、そして希望、或いは、行先不明の旅の予感が結びついたときに、震えるような感動を覚える。本作はラストで唱えられたキャンディマンの名が悲しくてならなかった。そのやり方でしか仕返しできない状況というのがあるとしたら、そこに想像力を働かせてみる。外国人として。

その点でインド映画『僕の名はパリエルム・ペルマール』とも似たものを感じた。宗教が社会とがっちり結ばれたもう一つの大国、インドで、その宗教の安らぎから排除された人たちの怒りの物語。インド娯楽映画に必ず登場するヒンドゥーの神様のモチーフがほとんど出ない。「神さまが決めたことだと勘違いしているようだけど、あなた達が、あなた達の責任において、現実の我々を傷つけ、奪っているのだから、安易に神さまのせいにしないでね」と聞こえる。そこが、ホラーの怪人に、現実の人々への報復をしてもらいたがっている『キャンディマン』の世界観とも近いように感じた。それだけの理由があるから。

テロによってしか主張ができない状況に置かれている人がいるのだということを分かりつつ、この世界にそれなりに満足して今を生きている自分は、やっぱり、どこか部外者として本作のような作品を楽しんでいる。日本でこのような映画が作られてヒットする余地はあるだろうか。

ホラー作品の『残穢』は、九州の炭鉱で無残に搾取された労働者の無念が深層にあり、その意味で社会的な側面を持っているが、「今皆が体験している苦痛」と結びいてはいない。今の日本は、社会的に安定しており、目立った社会階層間の葛藤が無いのである。個々の恨みはあったとしても集合化に至っていない。

皆が何となく嫉妬したりやっかんでいる「うまくいってそう」な人達への負の感情を吸い上げ、祟り神として暴れさせた作品『来る。』の方が今の世の中とうまく結びついていたし説得力があった。個々人の嫉妬や恨み、嫌悪感等…何というか、個人レベルの小さな闇の感情の断片が集まり、怪物を呼び出しているように見える。そして祟りの触発は不幸な事故なので、専門家にお任せして鎮めていただく。日本の祟り神は、あくまでも個人的な負の感情しか察知しないし、それ故に皆の願望を吸い上げるには至らず、ダークヒーローにはなり得ないだろう。そんな日本は平和なのかもしれない。

日本社会は、ある程度の豊かさと快適さをベースに我慢共同体として発展したことで、目立った分裂を避けているのかもしれない。社会という集合生命は、個々人の体験や気持ちとは全く違うレベルで息づいている。気に入ろうが気に食わなかろうが、どうしてもその中で生きなきゃいけない。

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