『スワンソング』公開に寄せて
先日『キネマ旬報』さんに、私が書いた『スワンソング』のトッド・スティーヴンス監督のインタビュー記事を掲載していただいた。もしご興味あればどうぞ。
※ウド・キアーへのインタビュー記事は未読なのでいつか読みたい。私、彼がゲイだということも本作について調べるまで知らなかった!お恥ずかしい。
トッド・スティーヴンス監督は田舎の町に生まれ育ち、そこから大都会に飛び出して映画監督になったゲイ男性。田舎町の空気に馴染めず、疎外感を味わった若者が最後街を飛び出していく…性的少数者や女性を描く、アメリカ青春映画の一つのパターンを辿った方なのだと思う。一方で、もちろん、地方都市でずっと幸せに生きるタイプのアメリカ青春映画の系譜もある(80年代の映画ってそういうのがメインだったように思う)。
監督は、故郷の町を舞台にした映画を製作してきた。今回の『スワンソング』、『Edge of Seventeen』(98)と『Gypsy 83』(01)である。
私は、インタビュー前に『Gypsy 83』だけは視聴した。
ときは2000年頃、オハイオ州の田舎町(サンダスキー)。町に馴染めず、退屈な日々を送っている娘、ジプシーと、ゲイの親友クライヴ。ある日二人はニューヨークで行われるイベントに出演するため、町を後にする。
ジプシーの夢は歌手。彼女の母親は、かつて夫と幼いジプシーを捨てて行方知れずになっていたのだが、彼女がニューヨークで歌手になっていたことを知るのだった(この部分はちょっと記憶が曖昧)。NYで全てを理解したジプシーは、かつては母がそこのスターであった会場で、母に対する叶わない願いを歌いあげる。クライヴはジプシーを尊敬の混じったような愛情深い眼差しで見つめるのだった。
ロードムービーの結末はいつも夢から覚めるような寂しさが漂う。クライヴの最後の選択がいかにも無力で切ない。この何とも言えず辛気臭い作品であり、そこがとてもよいと思った。そして、妖怪オネエがもう一度全盛期の意地を取り戻す様を描く『スワンソング』を作るに至った監督は、どのような心境の変化を経たのだろうか。
かつて、ゲイでパンクファッションにハマっていた自身が居心地悪く感じていた故郷の町はその後大きな変化を遂げ、ゲイとしてパートナーと共に道を歩けるまでになった。ゲイである監督にとってそうした変化は好ましく、「いいこと」であるはずであるのに、その帰結に戸惑っていると語る。そういう戸惑いの中で、ご自身が過去に出会った心のスターである、ミスター・パットへのトリビュートを捧げた。監督の中で、現在と未来に対する曰く言い難い掴み切れなさがあり、それが監督を「歴史的事実の確認」に向かわせたのではないかという気もする。
外れ者として居心地の悪かった過去のサンダスキーで、監督は、自分の人生のスターとも言える人物に出会っていたと語る。故郷の町を、居心地の悪い故郷というじめっとした表象で描いた『Gypsy 83』。ところがそんな場所で、実はミスター・パットがトップ独走状態のクジャク様として、皆に強烈な光を投げかけていたのである。そして、故郷のコミュニティーは、そのような存在をやっかみながらも一方で大事な思い出として持ち続けていたのだと『スワンソング』は語る。
ところで、監督に心境の変化をもたらしたアメリカだが、昨今、アメリカにおける「少数者」を巡る議論は先鋭化しているのだと、日本(インド)にいる私にさえ察知できるようになった。あたかも宗教的選民意識への先祖返りのように、彼らは誰かしら自分とは違う属性の人々を「差別」する権利を求めてとことんまで争っているように見える。インド出身でアメリカで作家となったDinesh D’Souzaが「アイデンティティー社会主義」と評する状況は、さすが、ピューリタンの末裔だという気がしてくる。インド出身の彼としては、彼の憧れた「アメリカらしさ」が消えていくことが耐えがたいのだろう。
「常識」が論争に歯止めをかけるのではないか…と期待したいところだが、今の状況から一歩引いたところから議論を俯瞰できない限り、皆に届くような語りは生まれないだろう。ジョーダン・ピール監督『アス(Us)』はそこに手を伸ばしたものの、伝わる形で語っているとは言い難い。
ちらほらと言及される、「息苦しさ」をうまいこと言葉にしているアメリカ映画作品はまだ出ていないように思う。ただ、『サムワン・インサイド』は、田舎町に住む若者達の群像を通じて少しそこに触れているように見える。
アメリカホラーらしい、異常者がモンスターとなって「ノーマル」(Netflix的の「ノーマル」とは少数者が優越する世界である)を脅かす構図の中で、「モンスター」のレッテルに苦しむ存在は本当は誰なのか。またそのモンスターにどのような言葉を投げつけているか。
10年前、『glee』に喜んでいた頃は、状況がこうなるとは思ってもみなかった。何となくシーズン5辺りからきな臭いものは感じていたものの…。いや、私自身がこういう風に考えるようになったことが予想できなかった。
スティーヴンス監督は、ゲイの1人として、アメリカの現状に関し功罪含めて言いたいことがたくさんあるのではないかと思う。私は、『スワンソング』がとても好きであると同時に、その中で語られていない領域にとても興味を惹かれている。これから監督はそこを描いてくれるだろうか。
日本ともアメリカとも全くコンテクストの異なるインドに来てみると、どうも「私達」は相変わらず世界のマイノリティーなのではないか、という気持ちになる。それを実感することはストレスフルである。世界のどこに行っても「同じように」扱われることこそが人間の尊厳だとアメリカの反差別物語は雄弁に語っている。しかしそれは、自分が飛び込んだ異文化を完全に否定する言動でしか実現し得ない。それはインドであるから実感したことだが、同じことは、日本についても言えるのだ。日本に来ても、自国にいるのと同じ扱いを求めているのかと思うような言動を見たときに我々の感じる嫌悪。それは、異文化に対するあからさまな侮蔑に見えるのだ。そして、私は、日本において、そのような振る舞いを称賛する日本人にもまた、同種の侮蔑を見出すに至っている。
マイノリティーが、出身成分の悪いマジョリティーを踏みつけることで溜飲を下げるような、アメリカ的な少数者運動がもたらす未来とはどのようなものだろうか。それが、共産主義運動を経験せず、他国民から文化や社会を踏みにじられたことのない国民だからこそ実践してしまう、「黒五類」糾弾の焼き直しのように思えてならないのである。
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