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ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会 ⑨どこまでも憑いてくる(最終章)

人類に幻滅したら北欧ホラーをどうぞ

さて、前回少し触れた、「悪」が自分の中に胚胎し、常に一緒にいるのだとする思考法について。

ル=グウィンは、ファンタジーは読んだ者を永遠に変えてしまう力があるのだと書いている。世の中を苦労しながら生き延びて清濁併せ呑むことができるようになり、グレーな「大人の事情」に納得がいく人にとっては、ホラーやダーク・ファンタジーは無用かもしれない。「自分はこんなのではいけない」「こんな自分は嫌だ」という、とても倫理的だが欲望を抑圧する否定の気持ちが心の中にモンスターを生み育てる。そして、そのモンスターと仕方なく対決し、何らかの決着をつけて成長していくことがダーク・ファンタジーの要だとしたら、自己否定を減らして来た人や、そもそも自分を抑圧しない人の中にはモンスターが蔓延らないということになる(一方自分で抑圧を作り出さなくても勝手にモンスターは育つのだから困ったものだ!)。

自分を知るプロセスは疲れる。基本的には自分のことなんか知りたくない。『アメリカンサイコ』(2000年)の主人公のように、自分というものを知らないまま生きて好きなことして死ぬのが一番だ。真面目に自分を制御するという正反対の道を歩み、自分を悔い改め続けると、ある日周囲の人間に疑問が向き始める。

なぜ彼らは自分自身に向き合わないのだろうか。私はこんなに自分を考えているのに!!

ソーシャルスリラーは、どちらかと言えば、自分の行いを悔い改めるためのバイブルの側面を持つため、自分を抑圧したら同じだけ他人も自己抑圧をすべきなのだという考え方に馴染みやすいように思う。いわゆるポリコレも、宗教保守と根っこの発想は変わらないのだということは、ここ数年間の一連のポリコレ運動やそれに飲まれた人々の様子を見て分かってきた。ホラー映画のリベラル派ソーシャルスリラーと、保守派の悪魔祓い映画が共通の構造を持っているのも当然なのだ。

悪い欲を抑圧すれば世の中がよくなるなんて嘘だ。何をしたって人類はよくはなりはしない。人類そのものに対する幻滅と、そんな人類の一員である自分への否定がやってくる性向の持ち主にとって、人間社会そのものを嫌悪する傾向がある北欧のホラー作品はうってつけである。

スウェーデン映画の『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008年)と、『ボーダー 二つの世界 』(2018年)には人間社会全体に対する嫌悪と幻滅が見える。社会をその射程範囲から捨象して暴走する『RAW』や、現行の社会体制自体は肯定しているソーシャルスリラー映画とは違い、社会を凝視し過ぎた挙句何の期待も持たなくなっている人の言うことにとても似ている!

尚、現在、北欧だけではなく欧州の犯罪ドラマ等の悪人の要素に特に顕著なのは、一見まともに見える大人からの子供に対する性的な虐待であるが、上記二作品は当然のようにその点に触れている。

伝統的には「異常」=モンスター枠に入れられてきた人間を「正常」側に取り込み、人権の名の下に救ってきた欧州で、最後に残った悪とは、大人から子供に対する暴力である。これはホラーとして描くまでもなく大きな問題である。身体の大きさの違いが生む力の差が環境変化や技術革新などにより完全に乗り越えられない限り、この部分に関する「異常」と「正常」の境目はこれ以上動かないと思う。それは男女の性差に紐づいた権力勾配についても同じである。

私の予想では、『RAW』の監督は、欧州人として、自らの欲望の暴走を描きつつも、弱者への加害欲については極めて慎重な態度をとるだろうと思う。『ボーダー』の主人公は人間ですらない。幼児虐待で金を儲けるような人類はもう要らないと言っている。人類は救うに値するのか。サラ・コナーも通った道だが、アメリカ映画の場合、そのように一応悩んで見せた後、必ず強い肯定が突き上げて来る。ファンタジーアクション映画『オールドガード』(2020年)は、人類に幻滅しながらもやはり人類を肯定する作品の好例である。アメリカ映画には、北欧映画の強い幻滅が無い。

飼い慣らす=抑圧?

ところで、今のところ人類最後の悪として描かれる、性欲が未成年や子供に向いてしまう欲望を自分の中に持っている人は、実際のところどう生きればいいのだろう。ホラーやファンタジーが教えるような形で自ら対峙し、飼い慣らす…でもそれは自己抑圧と違うのだろうか。世の中のために、また子供のために、その欲望を実行に移してはならない。その前提での話だが、その人の人生は、一生涯ホラーやファンタジーそのものになるだろう。それは本人が一人で背負わないといけないのだろうか。あなたの前世が悪いのであなたはここで苦しんでもらいます、と言われるようなものだ。ヒンドゥーはその考え方を持っているが、現実的にはそれが階級差別の根拠として機能してしまっている。

我々は、どんなに社会をリベラルにしたところで、誰かを守るために誰かの欲求…つまりその人そのものが犠牲になっていただくしかない。自文化は、抑圧される人を減らしてきたという歴史意識の上に立っている社会の構成員にとって、自分が他人を抑圧することに加担していると理解することはストレスだ。ゆえに『絶対悪』が必要なのである。宗教や伝統文化の名の下に差別される人と、あらゆる自由が許容された場所で自分を抑圧する他無い人に作用する社会の仕組みは同じだ。

しかし、ロビンウッドの理解の通り、伝統的ホラーのモンスターが、抑圧されたものの帰還なのだとしたら、必ずや抑圧された力は我々の『正常』だと思っている社会に反発してくる。その都度その都度、我々は悪に対して線引き=差別をして、社会全体を壊さないように動くのである。

出来れば自分は差別や線引きに加担したくない。私もまたそのように学校教育で教わってきたし、それを間に受けて育った。そのため、誰かを守るため、として積極的に線引きや差別に加担する気にはならないといういい子ぶりっ子として既に四十三年も生きてしまった。

今は、線引きという差別行為によって守られるものがハッキリしているなら、意に反してでもそれを支持する所存である。一方で、常に出来る限り多くの人が納得できる形に物事が着地することを願っている。

最近は、人のやることを簡単に差別だと非難する人が増えてきた。ソーシャルスリラーはそれを煽ってきた。が、正義を訴える側の使うツールが差別まみれであることが明らかな今、私は、他人のやることに差別のレッテルを貼ることに反発を覚えるようになった。全ての人間が何らかの形で排除に関わるからである。

差別、大好き

アメリカのホラー映画が好きな私には、差別行為を批判する資格が無いと前に書いた。もちろん冗談である。上記の考えを経て、そもそも差別行為を見つけ出して非難する気がなくなったのである。

何回も書くが、ホラー映画は大なり小なり差別を含んでいる。社会の中の線引き=差別が前提にあってはじめてホラーは娯楽の形を成し得るからである。我々はホラーを通じて間接的に差別のありようを楽しんでいる。フィクション無罪論は、まだ揺れているようだが、退治されるモンスターにもモンスターの人生があるのだ。

アメリカのホラーのみならず、日本のネット上の怪談を読んでいても「差別欲」ははっきりと感じる。「穢れ」を遠ざけたい、穢れた人間をコミュニティから隔離するのは当然なのだと日本の怪談は教えている。その気持ち悪さも感じつつ、なぜ私たちはそのような物語を好んで消費するのだろう。口では差別はいけないと言いながら、差別に淫している。差別の対象はその都度変わっていく。差別に理由が欲しいから、我々は悪魔や、暴力的な男性や、よそ者や、魔女や、病人や、性的倒錯をモンスターに代入するのである。「こんな表現を許容せよと言うなんて差別主義者だ」という言葉がSNS上に溢れる今、私もいつか差別主義者だと認定される日が来るのだろうと思う。でも、差別という重たい言葉を軽々しく使う人のことは信用ならなくなってきた。

自分が怖い

ところで、私が心底恐れていることは、自分で自分をコントロールできなくなり、心の中にある、差別したい、攻撃したい、という強い欲を持った自分=モンスターが外に暴れ出すことである。アンソニー・ホプキンスがオスカーを受賞した作品で、認知症を描いた『ファーザー』(2020年)はホラーと見えた。そうなりたくないものになるであろう自分がそこに見える。そうなったとき、自分の中の「悪」を悪魔のせいだと切り離すのだろうか。また、自分の一部として飼い慣らしできているのだろうか。飼い慣らすことができるということ自体が虚構なのではないか。

認知症はそういうレベルの懸念を全て吹き飛ばすだろう。

自分の中の悪を打ち倒せたらいい。でもほとんどの場合は、例え自分にとって好ましくないものであってもそれと一緒に生きていかなければならない。目を逸らすことができるときも、逃げられるときもある。それを直視せよ、悔い改めよとソーシャルスリラーも悪魔祓い映画も言うのだが、それが自分から切り離せないのにどうしたらいいのだろう。

十年後の私たちは

強者は自分というものを抑圧すればいいのだろうか。強者に問題があるとして、昨今の映画が描く通り100%の強者は実在するのだろうか。

反対に、複数の弱者属性を持つ人は自分を抑制する必要は無いのだろうか。弱者属性を持つ人の欲求の実現が他人の権利と正面衝突していると指摘すること自体が差別行為だというらしい。『ワタシセクシャル』の洪水の結果、あまりにもカバーする範囲が広くなってしまったトランス女性という存在の持つ欲望と、女性用スペース使用権利の問題は、完全にそれである。この件に関して抑圧されるのは誰なのだろうか。ホラー映画はいつかこのことを描くだろう。

欲望は、例え社会的に構築されていると説明されようが、意識が低いせいだ(=自己抑圧が足りない)と言われようが、自分の意思や倫理観と関係なく、勝手に湧いてくるものだ。篠原千絵の漫画『海の闇、月の影』は、その苦しさをセリフで言わせていた。

『マリグナント 狂暴な悪夢』(2021年)は、自分の身体の主導権を握った者がその欲望に勝利すると言っている。自分の中の悪は切り離せない。つまり一緒に生きていくしかないのである。そこにソーシャルスリラーの限界がある。どんなに意見の異なる人を排除して社会を清めたとしても、誰の中にもランダムに起こり得る様々な欲望は、予測も管理も不可能だ。日本のアニメ『PSYCHO-PASS』は、それを管理しようとしても尚不可能であるという幻滅を日本という場を使って面白く表現している。

10年後、我々はこのソーシャルスリラーを始めとした一連の現象をどのように見返すのだろう。リドリー・スコット監督が記者に対して暗にやったような振る舞いが常識にとって代わりつつある世界の更に先で、我々は何に恐怖するのだろう。

カルトと現代社会の地獄絵図を比ゆ的に描いたNetflixのドラマ『地獄が呼んでいる』のヨン・サンホ監督が言ったように、今見ているホラー映画を後々見返したとき、一体それは何であったかと振り返ることが大事なのだろう。今目にしているものは何なのか、分からないから怖い。怖いからホラー映画になり得る。しかしながら、ほんの少しだけ角度を変えてみると、怖い、憎い、と思っていた存在が全く違ったものに見えてくることもある。

今日の「侵略者」が、明日あなたの一番の理解者になるかもしれない。その転換が救いになり、新しい生の可能性を開くと『アザーズ』(2001年)は伝えている。思い切って恐怖の中に飛び込んでみるのもありだ。『ザ・ヴォイド』(2016年)は、大事な人を喪った主人公の自暴自棄的な行動に、奇妙な形で新しい世界での希望を与えた。認識が大きく転換することで、一つのホラーが終わる。

世界の方がひっくり返ってしまうかもしれない。そのとき我々は否応なく自分を定義し直し、自分の姿を作り直して安心したいと願う。社会の中に「異常」なモンスターを探し出して排除し、「正常」の中に自分を落ち着ける。或いは「異常」な自分に絶望しながら「正常」の振りをするかもしれない。我々は差別や線引き行為を通ってでも、自分を知りたがったり、安全な場所を探したがる存在である。

差別や線引きというものは、社会がある限りずっと行われる。古いホラーが役割を終えても、新しいホラーが生み出されるだろう。新しい状況にぶつかるたびに我々は自分の社会や自分の姿の過去と未来について考え込み、ホラーを生み出すからである。ソーシャルスリラー的なホラーは、この豊かなホラー映画の世界のほんの一部に過ぎない。極めて多様で奇妙で歪な想像力が詰まった作品の中から、我々の未来を占ってみる。それが、私にとっての何よりの楽しみである。

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